1. 秋の田の

今日の歌は「1. 秋の田の」です。

【歌】

Coarse the rush-mat roof
Sheltering the harvest-hut
Of the autumn rice-field;
And my sleeves are growing wet
With the moisture dripping through.
(Emperor Tenchi)

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
我が衣手は 露にぬれつつ
(天智天皇)

【ひとこと】

秋の農村の光景を詠んでいます。

元の歌で、第2句の「かりほ」は「(稲の)刈穂」と「仮庵」(収穫のための仮小屋)の掛詞です。「かりほ(仮庵)の庵」は、同じ意味の言葉を反復する表現です。

第3句の「苫(とま)」は、菅(すげ)や茅(かや)などを編んで作った屋根です。「苫をあらみ」の「み」は、理由や原因を示す接尾語です。句全体で「苫が粗いので」の意味になります。

第5句の「露にぬれつつ」の「つつ」は反復や継続を示します。英語では「are growing wet」として進行形で表現しています。

英語の「coarse」は「粗い」、「rush」は「藁」、「hut」は「小屋」、「moisture」は「湿り気」の意味です。

2. 春過ぎて

今日の歌は「2. 春過ぎて」です。

【歌】

The spring has passed
And the summer come again;
For the silk-white robes,
So they say, are spread to dry
On the "Mount of Heaven's Perfume."
(Empress Jito)

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天のかぐ山
(持統天皇)

【ひとこと】

「春が過ぎて、再び夏がやって来た。というのも、聞くところでは、『天の香りの山』に真っ白な衣が広げて干されている。」英訳はこのような意味です。

第2句の「夏来にけらし」の「に」は、過去・完了を示します。「けらし」は「けるらし」が縮まったもので、「ける」は過去を示します。英訳では「the spring has passed」と完了形で表現しています。ちょうど夏になったばかりの頃を示しています。

「夏来にけらし」の「らし」は、推量を示します。また、「衣ほすてふ」の「てふ」は、「という」が縮まった形です。この風景が人から聞き伝えであるように表現されています。天の香具山で衣を干す話を耳にして、夏の到来に気付いた様子を詠んだ歌とという設定です。

英語では、衣の件は「they say」と伝聞の設定となっています。しかし季節の推移については、「the spring has passed and the summer come again」と表現されており、推量でなく客観的な事実であるかのように表現されています。

3. あしびきの

今日の歌は「3. あしびきの」です。

【歌】

Oh, the foot-drawn trail
Of the mountain-pheasant's tail
Drooped like down-curved branch!
Through this long, long-dragging night
Must I lie in bed alone?
(Kakinomoto no Hitomaro)

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
ながながし夜を ひとりかも寝む
(柿本人麻呂)

【ひとこと】

元の歌の第1句「あしびきの」は、「山」にかかる枕詞です。訳者は、枕詞の字義を工夫して訳出しようとしています。

第2句の「山鳥」は鳥の名前です。当時この鳥は、夜に雌雄が分かれて寝る習性があると考えられていたそうです。尾が長い方が雄です。

恋人と離れて独り寝である今夜の作者の境遇を、山鳥に重ね合わせているようです。

第5句「ひとりかも寝む」の「む」は推量です。英訳では疑問文として表現しています。

英語の「trail」は「引きずる」、「pheasant」は「雉(きじ)」、「droop」は「垂れ下がる」、「lie」は「横たわる」の意味です。

4. 田子の浦に

今日の歌は「4. 田子の浦に」です。

【歌】

    When I take the path
    To Tago's coast, I see
    Perfect whiteness laid
    On Mount Fuji's lofty peak
    By the drift of falling snow.
                    (Yamabe no Akahito)

    田子の浦に うち出でてみれば 白妙の
      富士の高嶺に 雪はふりつつ
                            (山部赤人)

【ひとこと】

富士山の雄大な風景を描写しています。

「白妙の」は富士に掛かる枕詞です。元の歌にそれ以外の特別な技巧はなく、富士の光景をまっすぐに詠い上げています。

この英訳は、言葉の出てくる順序が元の歌と同じとなるようになっている点が、面白いと思います。

「Lofty」は「堂々とした」、「drift」は「流れ」の意味です。

第5句「雪はふりつつ」の最後の「つつ」は反復や継続を示しています。英語では「falling snow」と表現しています。

ところで、今雪が降っているのであれば、山の頂上は見えないような気がします。どのような光景のことを歌にしているのか想像するのも楽しいと思います。

5. 奥山に

今日の歌は「5. 奥山に」です。

【歌】

In the mountain depths,
Treading through the crimson leaves,
The wandering stag calls.
When I hear the lonely cry,
Sad--how sad!--the autumn is.
(Sarumaru)

奥山に 紅葉ふみわけ なく鹿の
声きく時ぞ 秋はかなしき
(猿丸太夫)

【ひとこと】

「山の奥で、真っ赤なもみじを踏み分けながら、さ迷う雄鹿が鳴いている。その寂しげな声を聞くにつけて、秋は何ともの悲しいのであろうか。」英訳はこのような意味です。

元の歌では「声きく時ぞ 秋はかなしき」と、係り結びにより意味を強調しています。英訳では、「how sad!」という文を挿入することで、その後に来る「autumn」を強調する効果を出しています。

雄鹿は雌鹿を求めて鳴くとされています。この歌は、遠く離れた恋人を思う作者の境遇を踏まえて詠んだ歌であると言われています。

英語の「tread」は「踏み込む」、「crimson」は「深紅色の」の意味です。

元の歌の第2句「もみぢふみわけ」の主語は、英訳では鹿となっています。元の歌は、歌人を主語とみなして、歌人が奥山に分け入ったところで鹿の声を聞いたと解釈することも可能です。

6. かささぎの

今日の歌は「6. かささぎの」です。

【歌】

If I see that bridge
That is spanned by flights of magpies
Across the arc of heaven
Made white with a deep-laid frost,
Then the night is almost past.
(Otomo no Yakamochi)

かささぎの わたせる橋に おく霜の
しろきをみれば 夜ぞふけにける
(中納言家持)

【ひとこと】

この歌は、中国の伝説にもとづいて、冬の宮中の様子を詠んだ歌であるそうです。霜が降りて真っ白になった宮中の階段を、七夕にかささぎ(鵲)が作るという天の橋に見立てて詠んだものと言われます。

別の解釈として、天の川を白い霜のようであると詠ったとする読み方もあります。

元の歌の第4句「しろきをみれば」の「み(見)れ」は已然形であり、仮定でなく確定の意味です。今「おく霜」が見えているという臨場感があります。これを英訳では「if... then...」のように仮定の表現をとっています。

この訳者は、他の歌においても確定条件を「if... then...」として表現する場合があります。与える印象の違いに注目すると面白いと思います。

英語の「magpie」は「かささぎ」の意味です。

7. 天の原

今日の歌は「7. 天の原」です。

【歌】

When I look up at
The wide-stretched plain of heaven,
Is the moon the same
That rose on Mount Mikasa
In the land of Kasuga?
(Abe no Nakamaro)

天の原 ふりさけみれば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
(阿倍仲麻呂)

【ひとこと】

唐へ渡った留学生が、故郷の光景を思って詠んだ歌であると伝えられています。中国で詠んだ歌が漢詩でなく和歌であったというのが面白いと思います。

元の歌の第2句「ふりさけみれば」は、「仰ぎ見れば」の意味です。

最後の「かも」は、奈良時代によく使われた終助詞で、詠嘆を示します。英訳では、この詠嘆を疑問形で表現しています。

なお、作者の表記は、底本としたWikisourceでは「阿倍仲麻呂」となっていますが、百人一首の世界では「安倍仲麿」の表記の方が広く見られるかと思います。

8. わが庵は

今日の歌は「8. わが庵は」です。

【歌】

My lowly hut is
Southeast from the capital.
Thus I choose to live.
And the world in which I live
Men have named a "Mount of Gloom."
(The Monk Kisen)

わが庵は 都のたつみ しかぞすむ
世をうぢ山と 人はいふなり
(喜撰法師)

【ひとこと】

元の歌の第2句「たつみ(辰巳)」は、東南の方角です。

第3句「しかぞすむ」は、「(私が)こうして住んでいる」の意味です。「しか」を掛詞とみなして、「鹿が棲んでいる」という解釈もあります。

第4句の「うぢ」は、「憂」と「宇治」の掛詞です。下の句は、「(私が)世の中を疎ましく思って(隠遁して)いる宇治山と、世間の人は言うようだ」のような意味になります。

英訳の際、訳者は掛詞の処理をどうしているでしょうか。訳者は「私の住むこの世界を、人は『Mount of Gloom』と呼ぶ」と表現しました。

第5句の「なり」は伝聞の助動詞です。自分のことを他人事のようにひょうひょうと歌い上げる精神は素晴らしいと思います。

英語の「lowly」は「みずぼらしい」、「hut」は「小屋」、「gloom」は「暗闇、憂鬱」の意味です。

9. 花の色は

今日の歌は「9. 花の色は」です。

【歌】

Color of the flower
Has already faded away,
While in idle thoughts
My life passes vainly by,
As I watch the long rains fall.
(Ono no Komachi)

花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
(小野小町)

【ひとこと】

「花の色はもう色あせてしまった。そして、ぼんやりとしているうちに、私の人生も無駄に過ぎていく。長雨が降るのを眺めている間に。」英訳はこのような意味です。

原文の第3句「いたづらに」は、第2句の「うつり」と第4句の「ふる」、さらに第5句の「ながめせ」に係っていると考えられます。

第4句の「ふる」が、「(雨が)降る」と「(時が)経る」の掛詞になっています。

また、第5句の「ながめ」は、「眺め」と「長雨」の掛詞になっています。

こうして、元の歌から次のような複数の文章が浮かんできます。
 「花の色がむなしく色あせてしまった。」
 「無駄に長雨が降っている。」
 「私もむなしく老けてしまったことだ。」
 「(そんな光景を私は)ぼんやり眺めている。」

雨の中で桜が色あせる客観的な光景を、世の中での女の花の時期が過ぎ去りつつあると考える自分の身に重ね合わせて描写し、さらにそれらを無心に観察する境遇を歌にしています。

英訳でも文脈から、そのようなイメージが読み取れるのではないかと思います。

ところで、英訳では「花」が「the flower」と単数で表現されています。「花」がひとりの女性の暗喩となっているからでしょう。日本の文化を知っている読み手なら、元の歌を読んで桜の小さな花びらがたくさん散っている様子を思い浮かべるかもしれません。一方、英訳では、一輪の花を想像してしまうかも知れません。あるいは多数の花をつける桜でも、その中のひとつの花に強く焦点が当たっているように感じるのではないでしょうか。印象が変わりますが、それはそれで面白いと思います。

10. これやこの

今日の歌は「10. これやこの」です。

【歌】

Truly, this is where
Travelers who go or come
Over parting ways--
Friends or strangers--all must meet:
The gate of "Meeting Hill."
(Semimaru)

これやこの 行くも帰るも わかれては
しるもしらぬも 逢坂の関
(蝉丸)

【ひとこと】

歌人の当時、逢坂山には関所があったようで、その光景を歌にしています。

「行く人と帰る人が別れ、知る人と知らない人が出会うという、これがあの逢坂の関。」特に深い意味がないように思われる内容を、心地よいリズムで歌っています。こうしたリズム感を別の言語に訳すことは、難しい作業であると思います。

「逢坂(あふさか)の関」は、「逢ふ」との掛詞となっています。英訳では逢坂山を「Meeting Hill」と訳出することで、人の出会いにちなむ土地であることを説明しています。

なお、「逢坂」は今の京都府と滋賀県の境にあった地名です。今の大阪とは関係ありません。

11. わたの原 八十島

今日の歌は「11. わたの原 八十島」です。

【歌】

Over the wide sea
Towards its many distant isles
My ship sets sail.
Will the fishing boats thronged here
Proclaim my journey to the world?
(Ono no Takamura)

わたの原 八十島かけて こぎいでぬと
人にはつげよ あまのつり舟
(参議篁)

【ひとこと】

彼は政治的な問題に巻き込まれ、島流しに処されてしまいました。

元の歌では、「私は大海原のたくさんの島を目指して漕ぎ出していった」と京の人に伝えてくれるよう、漁師の釣り船に向かって呼びかけています。

釣り船があれば漁師がいるはずですが、漁師でなく釣り船に向かって話しかけているところが、寂しさを演出しています。

ところで原文を読んで、この「つり舟」はいくつ浮いていると思われるでしょうか。英訳では「the fishing boats」と訳出されており、数船いる光景となっています。

元の歌の「人にはつげよ」は命令文です。英訳では「the fishing boats」を主語とした「will」の疑問文としています。もちろん詩ですから、詠み手の独白です。この表現の違いも面白いと思います。

英語の「isle」は小島、「set sail」は「船出する」、「throng」は「群がる」の意味です。

古語の「あま」は、海で生計を立てる人、漁師のことです。現代語の「海女」(あま)には女性の潜水漁師のイメージが強くありますすが、古語の「あま」はもっと一般的な意味です。

作者の名前は小野篁ですが、参議という位に就いたため、「参議篁」と呼ばれています。

12. 天つ風

今日の歌は「12. 天つ風」です。

【歌】

Let the winds of heaven
Blow through the paths among the clouds
And close their gates.
Then for a while I could detain
These messengers in maiden form.
(The Monk Henjo)

天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ
(僧正遍昭)

【ひとこと】

「天の風に雲の間の通り道を吹き抜けさせ、その門を閉じさせよ。そうすれば、しばらくの間、おとめ姿の使者たちを引き止めることができるのに。」英語はこのような意味です。

元の歌の「しばしとどめむ」の「む」は、意思を示しています。英訳では「could」を使った仮定法の表現となっています。

英訳で、「gates」や「messengers」という元の歌にない言葉を補って、光景を描写している点は、面白いと思います。

『古今和歌集』の詞書によれば、この歌は宮中で行われた五節の舞を見て詠んだ歌であるとのことです。その舞姫を天女に見立てて詠んだ歌です。

英語の「detain」は「引止める」、「maiden」は「おとめ」の意味です。

13. つくばねの

今日の歌は「13. つくばねの」です。

【歌】

From Tsukuba's peak
Falling waters have become
Mina's still, full flow:
So my love has grown to be
Like the river's quiet deeps.
(Emperor Yozei)

つくばねの 峰よりおつる みなの川
恋ぞつもりて 淵となりぬる
(陽成院)

【ひとこと】

「筑波の峰から流れ落ちている水は、みなの川の穏やかで豊かな流れとなる。そのように、私の恋も、その川の静かな淵のように大きくなった。」英訳はこのような内容です。

元の歌の最後の句「淵となりぬる」の「ぬる」は、完了を意味します。英訳では、文章を完了形としています。

元の歌の、「つくばね(筑波嶺)」、「みなの川」は、恋に関する歌枕です。英訳では、元の歌にはない「still」、「full」、「quiet」という形容詞を使って、地名が与える印象を表現しようとしています。

14. みちのくの

今日の歌は「14. みちのくの」です。

【歌】

Like Michinoku prints
Of the tangled leaves of ferns,
It is because of you
That I have become confused;
But my love for you remains.
(Minamoto no Toru)

みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに
みだれそめにし 我ならなくに
(河原左大臣)

【ひとこと】

恋のために自分の心が乱れているという心情を、相手に伝えようとしています。

「しだのもつれた葉の、みちのくの染物のように、私が心落ち着かなくなったのは、あなたのせいなのです。それでも、私があなたを思う恋心は変わりません。」英訳はこのような意味です。

元の歌の第5句「我ならなくに」が、英訳では「it is because of you」(あなたのせい)と直接的な表現となっています。

第4句の「みだれそめにし」は、「(私の心が)乱れ始めた」の意味です。英訳では完了形で表現されています。

「もぢずり」は、忍ぶ草の葉や茎で染め上げた、乱れ模様の布だそうです。陸奥(みちのく)、今の東北地方の特産物であったそうです。歌に異国情緒を醸し出しています。

15. 君がため 春の

今日の歌は「15. 君がため 春の」です。

【歌】

It is for your sake
That I walk the fields in spring,
Gathering green herbs,
While my garment's hanging sleeves
Are speckled with falling snow.
(Emperor Koko)

君がため 春の野に出でて 若菜つむ
わが衣手に 雪は降りつつ
(光考天皇)

【ひとこと】

「あなたのために春の野に出て若菜を摘む、その私の衣の袖に雪が降り積もっていく。」白とグリーンの対比が美しく感じられます。

君、春の野、若菜、衣手、雪と、イメージを喚起する言葉が登場する順番が元の歌と同じとなるように、工夫して訳出されています。そのため、読み手はどちらでも同じようなイメージを受け取ることができます。

原文の「若菜」を訳では「green herbs」としています。「Garment」は衣類、「speckle」は染みです。

第5句「雪は降りつつ」の「つつ」は、継続・反復を示す接続助詞です。英訳では「falling snow」と表現しています。

16. 立ちわかれ

今日の歌は「16. 立ちわかれ」です。

【歌】

Though we are parted,
If on Mount Inaba's peak
I should hear the sound
Of the pine trees growing there,
I'll come back again to you.
(Ariwara no Yukihira)

立ちわかれ いなばの山の 峰に生ふる
まつとし聞かば いまかへりこむ
(中納言行平)

【ひとこと】

作者が都を離れて赴任先へ発つときに詠まれた歌です。

元の歌の第2句の「いなば」は、「行なば」と「因幡」の掛詞です。
また、第4句の「まつ」は、「松」と「待つ」の掛詞となっています。

歌全体は、「(私は)別れて行ってしまうけれども、『待っています』と(あながた)言うのを聞けば、今すぐにでも帰って来よう」という作者の思いの中に、「因幡の国に生えている松」の光景を織り込む構成となっています。

歌の前半で「行く私」、歌の途中で「行った先にある松」と「都で私を待つあなた」、そして歌の最後で「帰ってくる私」という、複数の場面をひとつの歌に描いています。

第4句の「まつとし聞かば」の「し」は、強意の副助詞です。

ところで、掛詞は、同じ言葉に複数の意味合いを持たせるという技巧であるために、他の言語の限られた語数で表現することが難しいことがあります。

「まつ」の掛詞の箇所を、英訳では「松の木の音を聞けば帰って来る」と訳しています。これは日本語の解釈からは出てこない内容です。そもそも、松の木の音とは何でしょうか。訳者のこの表現は、限られた行数、限られた語数で訳出しなければならないという限界によるものかもしれません。あるいは、単に掛詞の解釈の誤りによるものかもしれません。英訳の「the sound of the pine trees」に込められた意味について改めて想像してみるのも面白いと思います。

17. ちはやぶる

今日の歌は「17. ちはやぶる」です。

【歌】

Even when the gods
Held sway in the ancient days,
I have never heard
That water gleamed with autumn red
As it does in Tatta's stream.
(Ariwara no Narihira)

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川
からくれなゐに 水くくるとは
(在原業平朝臣)

【ひとこと】

「神々が支配していた古い時代でさえ、この竜田川のように、水が秋の赤色にきらめく様子は聞いたことがない。」英訳はこのように言っています。

元の歌の3句目以降は、「竜田川が水を唐紅色に括り染め(絞り染め)にする」のように解釈できます。

ちなみに、百人一首の編者である定家は、これとは別の解釈を提案しています。彼は「くくる」を「くぐ(潜)る」と読みます。そしてこの歌を、紅葉で埋め尽くされた川面の下を水が通り抜ける様子を描写したもであると解釈します。

英語の「sway」は「支配する、統治する」、「gleam」は「きらめく」、「stream」は「小川」の意味です。

古語の「ちはやぶる」は、神に続く枕詞です。これはさすがに訳者も訳出していません。

18. 住の江の

今日の歌は「18. 住の江の」です。

【歌】

The waves are gathered
On the shore of Sumi Bay,
And in the gathered night,
When in dreams I go to you,
I hide from people's eyes.
(Fujiwara no Toshiyuki)

住の江の 岸による波 よるさへや
夢のかよひ路 人目よくらむ
(藤原敏行朝臣)

【ひとこと】

元の歌のはじめの2句は序詞です。「よる」の同音反復となっています。

第3句以降は、「夜でさえも夢の通り道で人目を避けているのだろうか」のような意味です。相手が自分のもとに来ない理由を推し量っています。

「岸の波は夜も昼も打ち寄せるというのに、あの人は夢の中でさえ来てくれない」という、男を待つ女の気持ちになって詠んだ歌です。当時は男が女のもと夜毎に通う習慣でした。

英語の歌は、男である読み手が人目を避けて女のもとへ行く設定となっています。このような解釈もなされているようです。

19. 難波潟

今日の歌は「19. 難波潟」です。

【歌】

Even for a time
Short as a piece of the reeds
In Naniwa's marsh,
We must never meet again:
Is this what you are asking me?
(Lady Ise)

難波潟 みじかき蘆の ふしのまも
あはでこの世を すぐしてよとや
(伊勢)

【ひとこと】

元の歌の第3句の「ふし」は、「(蘆の)節」と「臥し」の掛詞です。第4句の「世(よ)」は、「節(よ)」との掛詞と考えられます。そして「ふし(節)」と「よ(節)」は「蘆」の縁語となります。

第5句の「すぐしてよとや」の「てよ」は、完了の助動詞「つ」の命令形です。最後の「や」は係助詞ですが、結びの語句が消滅しています。

結びの動詞を補うと、下の句の意味は、「『会わずにこの世を過ごしてしまえ』と(あなたは私におっしゃるのですか)」となります。

もう会ってくれないのかと相手に問いただす、女の恋の歌です。

「『難波潟の葦の一節のようなわずかな時間でさえ、私たちが再び会うことは決してない。』あなたはこうおっしゃるのですか。」英訳はこのような意味です。

日本語では2文字の「とや」が、英語では「is this what you are asking me?」と1行の表現となるところは面白いと思います。

英語の「marsh」は「沼地、湿地」の意味です。

20. わびぬれば

今日の歌は「20. わびぬれば」です。

【歌】

In this dire distress
My life is meaningless.
So we must meet now,
Even though it costs my life
In the Bay of Naniwa.
(Prince Motoyoshi)

わびぬれば いまはたおなじ 難波なる
身をつくしても あはむとぞ思ふ
(元良親王)

【ひとこと】

恋の歌です。許されないの恋が世に知られてしまった困難な状況の中で、命を懸けても相手に会おうという意思を述べた歌です。

第1句「わびぬれば」の「わび」は、動詞「わぶ」の連用形で、「悩み苦しむ」とか「つらく思う」の意味です。第2句「いまはたおなじ」の「はた」は、副詞で現代語の「また」の意味です。「はた」は一語の副詞であるため、「ハタ」と発音します。

第2句までの意味は、「(あなたに会えなくて)つらい思いをしてしまっているのだから、今はもう(どうなろうが)同じことだ」ということです。

元の歌の第4句の「みをつくし」は、「身を尽くし」と「澪標」の掛詞です。第3句と第4句の「難波なるみをつくし」は、「難波潟にある澪標」の意味です。歌の修辞となっています。古語の「澪標(みをつくし)」は、岸に立てて船の航路を示す標識です。「澪標」の語源は「澪つ串」で、「澪」は小舟の航路の意味です。

英訳ではこの辺りを「難波潟で命を落としても」と訳しています。これは元の歌に含まれない内容です。これを誤訳であると言ってしまうことは可能であると思います。修辞のために導入された「難波なる」は、唐突過ぎて簡素に表現することは困難です。しかし、だからといって省略することも適切であるとは思われません。こうしたぎりぎりの状況が生んだ、創造的な解釈であると考えることもできるのではないかと思います。

21. 今こむと

今日の歌は「21. 今こむと」です。

【歌】

Just because she said,
In a moment I will come,
I've awaited her
Until the moon of daybreak,
In the long month, has appeared.
(The Monk Sosei)

今こむと いひしばかりに 長月の
有明の月を まちいでつるかな
(素性法師)

【ひとこと】

「『今行くよ』と(あなたが)言ったばかりに(私は寝ずに待っていたのに)、(あなたではなく)明け方の月が出るのを待つことになってしまった。」元の歌の内容はこのような感じです。

「長月」は陰暦の9月で、特に夜が長い時期です。「有明の月」は明け方の月です。

当時は、男が夜毎に女のもとに通う習慣でした。歌人は坊主ですが、男を待つ女の気持ちになって作った歌です。歌人ですから女の気持ちになれるのです。

英訳では、「she/her」とあるように、女と男の立場が入れ替わっています。面白い解釈となっています。

22. 吹くからに

今日の歌は「22. 吹くからに」です。

【歌】

It is by its breath
That autumn's leaves of trees and grass
Are wasted and driven.
So they call this mountain wind
The wild one, the destroyer.
(Fun'ya no Yasuhide)

吹くからに 秋の草木の しをるれば
むべ山風を 嵐といふらむ
(文屋康秀)

【ひとこと】

元の歌は、「山+風=嵐」という漢字を使った言葉遊びです。

第5句の「嵐」には、「荒らし」の意味が掛けられています。

第4句の「むべ」は「なるほど」という意味の副詞です。

23. 月みれば

今日の歌は「23. 月みれば」です。

【歌】

As I view the moon,
Many things come into my mind,
And my thoughts are sad;
Yet it's not for me alone,
That the autumn time has come.
(Oe no Chisato)

月みれば ちぢにものこそ かなしけれ
わが身一つの 秋にはあらねど
(大江千里)

【ひとこと】

元の歌では、「ちぢ(千々)」と「一つ」が対比されています。「一つ」は、ここでは「ひとり」の意味と考えられます。

秋がもの悲しいという歌です。季節に対して日本人が抱くこうした感情は、英語の読み手と共有できるものなのでしょうか。

もっとも、「もの悲しい秋」というこの歌の主題も、中国の漢詩に影響されて当時の日本で使わ始めたものであるそうです。対比表現というのも漢詩でよく使われる表現技巧です。

24. このたびは

今日の歌は「24. このたびは」です。

【歌】

At the present time,
Since I could bring no offering,
See Mount Tamuke!
Here are brocades of red leaves,
As a tribute to the gods.
(Sugawara no Michizane)

このたびは ぬさもとりあへず 手向山
もみぢのにしき 神のまにまに
(菅家)

【ひとこと】

時の天皇の御幸に供した作者が、その道中で作った歌です。土地の神に旅の無事を祈願する場面を描いています。

元の歌で、第2句の「ぬさ(幣)」は、神への捧げ物のひとつです。「ぬさもとりあへず」は、「(準備が急で)幣を用意できず」の意味です。英訳もこの解釈を採用しています。この部分を「(紅葉があまりに美しいので、持参した)幣などでは捧げ切れない」とする解釈もあります。

「手向山(たむけやま)」は、幣を捧げる山を指します。固有名詞ではないと考えられます。

最後の「神のまにまに」は、「神の御心のままに」の意味です。

第1句の「このたび」は、「この旅」と「この度」の意味の掛詞です。

英語の「offering」は「捧げ物」、「brocade」は「錦」、「tribute」は「供え物」の意味です。

作者の「菅家」は、菅原道真のことです。非常に学識の高い人物として今日でも広く知られています。

25. 名にし負はば

今日の歌は「25. 名にし負はば」です。

【歌】

If your name is true,
Trailing vine of "Meeting Hill,"
Isn't there some way,
Hidden from people's gaze,
That you can draw her to my side?
(Fujiwara no Sadakata)

名にし負はば 逢坂山の さねかづら
人にしられで 来るよしもがな
(三条右大臣)

【ひとこと】

会うことが許されない女のことを思って、男が書き送った歌です。

元の歌の第2句の「逢坂山」には、「(女と男が)逢ふ」の意味が掛けられています。定番の掛詞です。

第3句の「さねかずら」は、つる草の一種です。「さねかずら」に「さ寝」(男女の添い寝)の意味が掛けられています。

そして歌人は、そのような名前を持つ「逢坂山のさねかづら」に向かって、語りかけています。

第5句の「来る」は、「(つるを)繰る」との掛詞です。つるは手繰ればこちら側に引き寄せることができます。男と女が出会うイメージを構成しています。

第5句の「来る」の主語は、詠み手です。相手の立場で表現しているため、自分が相手の場所に「行く」行為を示すのに、「来る」という表現を使っています。

したがって、下の句は「人に知られずに、私があの人のところに行く方法があればなあ」という内容になります。

男が女のもとを訪ねる当時の習慣を考え合わせても、元の歌を「相手を私の側に連れ出したい」という意味に解釈するのは困難です。英訳は創造的な解釈となっています。

第5句の最後の「もがな」は、願望の終助詞です。訳者はこれを疑問文で表現しています。

英語の「trailing」は、「引きずる」の意味です。

26. 小倉山

今日の歌は「26. 小倉山」です。

【歌】

If the maple leaves
On Ogura mountain
Could only have hearts,
They would longingly await
The emperor's pilgrimage.
(Fujiwara no Tadahira)

小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
いまひとたびの みゆきまたなむ
(貞信公)

【ひとこと】

元の歌の最後の句の「みゆき(行幸)」は、天皇が外出することです。最後の「なむ」は他者への願望を示す終助詞です。

原文では、紅葉に向かって「お前に心があるならば、天皇が訪れるまで散らないでいておくれ」と語りかける歌となっています。

英訳では仮定法を使い、「もし紅葉に心があれば、天皇の訪問を待ってくれるであろうに」となっています。歌の印象が変化していて面白いと思います。

英語の「pilgrimage」は、「巡礼」の意味です。

作者名の「貞信公」は、藤原忠平の諡号です。

27. みかの原

今日の歌は「27. みかの原」です。

【歌】

Over Mika's plain,
Gushing forth and flowing free,
Is Izumi's stream.
I do not know if we have met:
Why, then, do I long for her?
(Fujiwara no Kanesuke)

みかの原 わきて流るる いづみ川
いつみきとてか 恋しかるらむ
(中納言兼輔)

【ひとこと】

元の歌の上の句は序詞となっています。まず、「みかの原を(二つに)分けて流れる泉川」と風景描写をしています。そして、音の繰り返しにより後半を続けて、「いつあなたに会ったというので、(これほどまでに)恋しいのだろうか」と作者の心情を語っています。

英訳では、当然ながら元の歌の音声は消えてしまうので、前半の風景描写と後半の心情表現との接続が見えず、全体の意味がよく分からない歌になっています。同音反復を使った歌の翻訳はかなり難しいといえます。自分が訳者ならどのように工夫するか、いろいろ考えてみると面白いのではないでしょうか。

最後の「らむ」は推量を示します。もちろん、作者は相手に初めて会った時がいつであったかを思い出せないと疑問を呈しているのではありません。これは恋心の深さを強調した表現です。英訳では理由を問う疑問文として、気持ちの深さを表現しています。

英語の「gush」は、「噴出する」の意味です。元の歌の「わきて流るる」を「(水が)湧き出て流れる」と解釈しています。このような歌の解釈もあります。

28. 山里は

今日の歌は「28. 山里は」です。

【歌】

Winter loneliness
In a mountain village grows
Only deepeer, when
Guests are gone, and leaves and grass
Are withered: troubling thoughts.
(Minamoto no Muneyuki)

山里は 冬ぞさびしさ まさりける
人目も草も かれぬと思へば
(源宗行朝臣)

【ひとこと】

「訪れる人も離れ、葉や草も枯れると、山村の冬の寂しさは、ただ深くなっていく。」英訳はこのような内容です。

元の歌の第5句「かれぬと思へば」の「かれ」は、「(草が)枯れ」と「(人が)離れ」の掛詞です。自然と人間の両方の事態を同時に描写しています。英訳でも丁寧に訳出されています。

第2句から第3句「冬ぞさびしさまさりける」の「ぞ」は係助詞であり、詠嘆の助動詞の連体形「ける」により結びとしています。寂しい季節がとりわけ冬であることを強調した表現です。

ここを英訳では、「winter loneliness... grows only deepeer」と、比較級を使って、冬の寂しさが増していく様子として表現しています。

29. 心当てに

今日の歌は「29. 心当てに」です。

【歌】

If it were my wish
To pick the white chrysanthemums,
Puzzled by the frost
Of the early autumn time,
I by chance might pluck the flower.
(Oshikochi no Mitsune)

心当てに 折らばや折らむ 初霜の
おきまどはせる 白菊の花
(凡河内躬恒)

【ひとこと】

秋の初霜の光景を詠んだ歌です。

「早秋の霜で見分けがつかないこの白菊を摘もうと思うなら、偶然でしか花を摘むことができないだろう。」英訳はこのような内容です。仮定法です。

元の歌は、「当てずっぽうで折るならば、折ってみよう、初霜で見分けがつかない白菊の花を」のような意味です。

いずれも白菊と霜が区別が付かない様子を描いています。表現の仕方がそれぞれに面白いと思います。

英語の「chrysanthemum」は「菊」、「pluck」は「摘む」の意味です。

30. 有明の

今日の歌は「30. 有明の」です。

【歌】

Like the morning moon,
Cold, unpitying was my love.
And since we parted,
I dislike nothing so much
As the breaking light of day.
(Mibu no Tadamine)

有明の つれなく見えし 別れより
あかつきばかり うきものはなし
(壬生忠岑)

【ひとこと】

「明け方の月のように、私の恋は冷淡で無常であった。あの別れからというもの、夜明けの光ほど疎ましいものはない。」英訳はこのような内容です。

元の歌の「つれなく」は、「有明」の月であるとする解釈と、「別れ」であるとする解釈が可能です。英訳では両方であると解釈しているようです。

また、元の歌の「別れ」は後朝の別れと想像されます。英訳もこの解釈であると言えます。相手と会えずに帰ったとする説もあります。

古語の「あかつき(暁)」は、「明か時(あかとき)」が転じた言葉で、夜が明けようとする頃を指します。「有明」は明け方に月が残っている頃、またはその月の意味です。

31. 朝ぼらけ 有明の

今日の歌は「31. 朝ぼらけ 有明の」です。

【歌】

At the break of day,
Just as though the morning moon
Lightened the dim scene,
Yoshino's village lay
In a haze of falling snow.
(Sakanoue no Korenori)

朝ぼらけ 有明の月と見るまでに
吉野の里に 降れる白雪
(坂上是則)

【ひとこと】

元の歌の第5句の「降れる」は、「降る」の命令形に助動詞「り」の連体形が続いた形です。この「り」は継続とも完了とも解釈することができます。

英訳では「a haze of falling snow」と表現されており、雪が現在降り続いていることになっています。もちろん、雪が降り続いているのであれば、月は見えません。そこで「just as though...」として比喩的な表現としています。

表現技法を見ると、元の歌は第5句で体言止めとなっています。一方、英訳は主語と述語がそろった文章となっています。しかし最後の語はいずれも「雪」で揃えられており、読み終えた後に同じ印象が残るように工夫されているようです。

第1句の「朝ぼらけ」は朝、辺りがほのぼのと明るくなりかける頃です。この言葉には冬や秋のイメージがあります。

百人一首には、「朝ぼらけ」で始まる歌がもう一首あります。それは権中納言定頼の歌(64. 朝ぼらけ 宇治の)で、やはり冬の光景を詠んでいます。

歌の途中に「朝ぼらけ」を含む歌には藤原道信朝臣の歌(52. あけぬれば)があります。これは恋の歌ですが、出典となった歌集の詞書によれば、冬の朝のこととして詠まれた歌であるとのことです。夜の長い季節であるにもかかわらず、「なほうらめしき 朝ぼらけかな」などと詠っています。

32. 山川に

今日の歌は「32. 山川に」です。

【歌】

In a mountain stream
There is a wattled barrier
Built by the busy wind.
Yet it's only maple leaves,
Powerless to flow away.
(Harumichi no Tsuraki)

山川に 風のかけたる しがらみは
ながれもあへぬ もみぢなりけり
(春道列樹)

【ひとこと】

秋の歌です。

「山の小川に、吹き続ける風が編んだ柵がある。それは、流れることもない、もみじの葉である。」英訳はこのような意味です。

元の歌で、第1句の「山川」は、ここでは「やまがは」(「が」が濁る)と読んで、「山の中の川」の意味であると考えられます。第3句の「しがらみ(柵)」は、竹などを編んで作られた、川の流れをせき止めるための構造物です。

第4句の「なが(流)れもあ(敢)へぬ」は、「流れ切れない」の意味です。

英語の「stream」は「小川」、「wattle」は「編む」の意味です。

33. 久方の

今日の歌は「33. 久方の」です。

【歌】

In the peaceful light
Of the ever-shining sun
In the days of spring,
Why do the cherry's new-blown blooms
Scatter like restless thoughts?
(Ki no Tomonori)

久方の 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ
(紀友則)

【ひとこと】

春の陽の光ののどかさと、そぞろに散る桜の花の対比を歌にしています。

「春の日の、輝き続ける太陽の穏やかな光の中で、どうして桜の咲いたばかりの花は、落ち着かないもの思いのように散っていくのだろうか。」英訳はこのような意味です。

日本語の歌には、ある春の日のひとこまを切り取ったような印象あるかもしれません。英訳では「the days of spring」(days が複数形)や「ever-shining」という表現が選ばれており、永久の時を感じさせる歌に仕上がっているように思いますが、いかがでしょうか。

第3句の「しづ(静)心(ごころ)」は、花に心があるかのような擬人表現です。

元の歌の第5句の「らむ」は、現在の視界内の推量を示す助動詞です。花が散るという単純な光景を目の前にして、いったい何を推察しているのでしょうか。これを英語では、花が散る理由を問うていると解釈しています。

34. 誰をかも

今日の歌は「34. 誰をかも」です。

【歌】

Who is still alive
When I have grown so old
That I can call my friends?
Even Takasago's pines
No longer offer comfort.
(Fujiwara no Okikaze)

誰をかも しる人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに
(藤原興風)

【ひとこと】

老境を詠んだ歌です。

「高砂の松も(私の)古い友ではないというのに、いったい誰を親しい友にしようというのか。」元の歌はこのような意味です。

第3句の「高砂」は、松の名所として知られた土地であると解釈できます。

第5句の「なら/なく/に」は、断定の助動詞、打消の助動詞、接続助詞が続いた形です。

英訳の最後2行では、「高砂の松でさえ、もはや(私に)安らぎを与えてはくれないのに」というように、作者の心境を直接的に表現しています。

常緑樹である松には、日本では長寿のイメージがあります。英訳の読者に、歌の前提であるこのイメージの共有が期待できるのか、少し気になるところです。

35. 人はいさ

今日の歌は「35. 人はいさ」です。

【歌】

The depths of the hearts
Of humankind cannot be known.
But in my birthplace
The plum blossoms smell the same
As in the years gone by.
(Ki no Tsurayuki)

人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の 香に匂ひける
(紀貫之)

【ひとこと】

「人の心の深さを計り知ることはできません。でも、私の故郷では、梅の花が過ぎ去った過去と変わらずに香っています。」英訳はこのような意味です。

英訳では「生まれ故郷」と訳出していますが、元の歌の「ふるさと」は、「昔から馴染みのある土地」というほどの意味と思われます。

『古今集』には、この歌の詞書があります。それによると、初瀬参りの際にいつも宿としていた家に久しぶりに訪れたとき、疎遠なのを主人になじられたのに応えて作った歌であるとのことです。

第1句の「人」は、その主人のことを暗に指していると考えられます。英訳では「人」が「humankind」と訳されており、特定の相手ではなく、人間一般と自然を対比して意識させるような表現となっています。

詞書によれば、「花」といえば普通は桜ですが、この歌では梅(plum blossoms)を指しているとのことです。この文脈は英訳でも正確に反映されています。

第1句「人はいさ」の「いさ」は副詞で、「さあ(どうでしょうか)」という意味です。

36. 夏の夜は

今日の歌は「36. 夏の夜は」です。

【歌】

In the summer night
The evening still seems present,
But the dawn is here.
To what region of the clouds
Has the wandering moon come home?
(Kiyohara no Fukayabu)

夏の夜は まだ宵ながら あけぬるを
雲のいづこに 月やどるらむ
(清原深養父)

【ひとこと】

夏の夜は短く、すぐに明けてしまうので、月は雲のどこに隠れているのだろうと、想像している歌です。

第5句の「月やどるらむ」の「らむ」は、現在推量です。英訳では疑問文として表現しています。

月を「the wandering moon」と形容しているのが、とても面白いと思います。英語の「wander」は「さ迷う」の意味です。

37. 白露に

今日の歌は「37. 白露に」です。

【歌】

In the autumn fields
When the heedless wind blows by
Over the pure-white dew,
How the myriad unstrung gems
Are scattered everywhere around.
(Fun'ya no Asayasu)

白露に 風の吹きしく 秋の野は
つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
(文屋朝康)

【ひとこと】

「秋の野で、透明な白い露の上に不意に風が吹き抜けると、紐から弾けた無数の宝石が辺り一面に散らばる。」英語はこのような意味です。光景の美しさを感嘆文で描いています。

元の歌の第2句「風の吹きし(頻)く」は、風がしきりに吹く様子を表現したものです。

英語の「heedless」は「思慮のない」、「myriad」は「無数の」の意味です。「Strung」は「string」の過去分詞です。

38. 忘らるる

今日の歌は「38. 忘らるる」です。

【歌】

Though he forsook me,
For myself I do not care:
He made a promise,
And his life, who is forsworn,
Oh how pitiful that is.
(Lady Ukon)

忘らるる 身をば思はず ちかひてし
人の命の 惜しくもあるかな
(右近)

【ひとこと】

「彼は私を捨てた。でも、私は私自分のことは構わない。誓いを立てておいて破った、その彼の命がとても哀れで仕方がないのです。」英訳は感嘆文で表現しています。

恋を誓った彼が、神罰にあたって死んでしまうのが惜しいと言っています。別れた後でも相手のことを思う女の心が表現されています。

「私を捨てたお前など、神罰に当たって死んでしまえ」と強烈に皮肉っているという、うがった読み方もできるかもしれません。

あるいは、惜しくもあり、憎くもありという、どちらの心も本当なのかもしれません。

英語の「forsook」は「forsake」(見捨てる)の過去形です。「Forsworn」は「forswear」(誓いを破る)の過去分詞です。

39. 浅茅生の

今日の歌は「39. 浅茅生の」です。

【歌】

Bamboo growing
Among the tangled reeds
Like my hidden love:
But it is too much to bear
That I still love her so.
(Minamoto no Hitoshi)

浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど
あまりてなどか 人の恋しき
(参議等)

【ひとこと】

「繁み入った茅(ちがや)の中で笹が伸びてゆく。私の忍ぶ恋のように。しかし、彼女への強い思いは、もう耐えられないほどだ。」英訳はこのような意味です。

元の歌のはじめの2句は、序詞です。同音反復で第3句の「しのぶ」に続きます。

第1句の「浅茅(あさぢ)」は短い茅(ちがや)、「生(う)」はそれが生える場所のことです。

第2句の「小野(おの)」の「小」は調子を整えるための接頭辞で、「篠(しの)」は細い竹、「原」は植物が群生する場所です。

第3句以降の意味は、「忍んでも忍びきれないで、どうしてあの人が恋しいのだろうか」のように疑問となっています。

第4句の「など/か」は、疑問の副詞と、疑問の係助詞です。

40. しのぶれど

今日の歌は「40. しのぶれど」です。

【歌】

Though I would hide it,
In my face it still appears--
My fond, secret love.
And now he questions me:
Is something bothering you?
(Taira no Kanemori)

しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は
物や思ふと 人の問ふまで
(平兼盛)

【ひとこと】

元の歌の第2句「色に出でにけり」は、隠していた思いが表情などの見て分かってしまう形であらわれた様子を示しています。

第4句の「物や思ふ」は、恋のもの思いのことを指しています。

歌全体で、「こらえていたのに、私の恋は顔色に出てしまったことだ。『(恋の)もの思いをしているのか』と人が問う程までに」といった意味です。

忍ぶ恋の歌です。歌合せで作られて勝ち判定を得た歌であるとのことです。

41. 恋すてふ

今日の歌は「41. 恋すてふ」です。

【歌】

It is true I love,
But the rumor of my love
Had gone far and wide,
When people should not have known
That I had begun to love.
(Mibu no Tadami)

恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり
人しれずこそ 思ひそめしか
(壬生忠見)

【ひとこと】

「『恋をしている』という私の噂は、早くも立ってしまった。人に知られないように、(相手を)思い初めたばかりなのに。」これが元の歌の内容です。

第1句の「てふ」は、「という」が縮まった表現です。第2句の「まだき」は、「早くも」の意味です。第5句の「しか」は過去を示します。

忍ぶ恋をテーマとして、歌合せで作られた歌です。対する相手は平兼盛(40. しのぶれど)でした。

42. ちぎりきな

今日の歌は「42. ちぎりきな」です。

【歌】

Our sleeves were wet with tears
As pledges that our love--
Will last until
Over Sue's Mount of Pines
Ocean waves are breaking.
(Kiyohara no Motosuke)

ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波こさじとは
(清原元輔)

【ひとこと】

「お互いの袖を涙で濡らした。末の松山を波が越えないように、私たちの恋は終わらないのだと誓って。」英語はこのような内容です。

元の歌で、第1句「ちぎりきな」の「き」は過去を示しています。「な」は感動を示す終助詞です。第2句の「かたみに」は「互いに」の意味です。第5句「波こさじとは」の「じ」は打消推量です。

「末の松山」を波が越すことがないように、互いの心が変わることは決してないと誓い合ったのにと、相手に対して訴えかけています。

この歌は、心変わりした女に対して男が詠んだ歌です。

英語の「pledge」は「誓う」の意味です。

43. あひみての

今日の歌は「43. あひみての」です。

【歌】

I have met my love.
When I compare this present
With feelings of the past,
My passion is now as if
I have never loved before.
(Fujiwara no Atsutada)

あひみての のちの心に くらぶれば
昔は物を 思はざりけり
(権中納言敦忠)

【ひとこと】

「恋する人と会った。今のこの気持ちを以前と比べれば、今の情熱は、以前は恋などしたことがなかったかのようなものだ。」英語の内容はこのようなところでしょうか。

日本語での物思いが、英語では「my passion」とより前向きに訳されています。

『拾遺抄』によれば、後朝の歌であるとのことです。女と別れた朝に相手に贈った歌です。

44. あふことの

今日の歌は「44. あふことの」です。

【歌】

If it should happen
That we never met again,
I would not complain;
And I doubt that she or I
Would feel that we were left alone.
(Fujiwara no Asatada)

あふことの たえてしなくば なかなかに
人をも身をも 恨みざらまし
(中納言朝忠)

【ひとこと】

「(再びあなたと)会うことが決してないのであれば、かえって相手や自分を恨むことはないだろうに。」元の歌は一般的にこのように解釈されています。

元の歌は、「...なくば、...まし」という、反実仮想の表現をとっています。

第2句の「たえてしなくば」の「し」は間投助詞です。第3句の「なかなか(中々)に」は、「かえって、なまじっか」の意味です。

この歌は歌合せで作られたものであるとのことです。

なお、第2句の「たえてしなく」は、テキストによっては「たえてしなく」(最後が清音)となっています。

45. あはれとも

今日の歌は「45. あはれとも」です。

【歌】

Surely there is none
Who will speak a pitying word
About my lost love.
Now my folly's fitting end
Is my own nothingness.
(Fujiwara no Koremasa)

あはれとも いふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな
(謙徳公)

【ひとこと】

「(私のことを)『かわいそうに』と言ってくれるような人は思い当たらず、(私はこのまま)空しく死んでしまうのであろうなあ。」これが元の歌の意味です。

冒頭の「あはれともいふべき人」は、歌人が付き合っていた相手を念頭に置いた表現であると考えられます。失恋の歌です。

作者名の「謙徳公」は、藤原伊尹(これただ、これまさ)の諡号です。

46. 由良のとを

今日の歌は「46. 由良のとを」です。

【歌】

Like a mariner
Sailing over Yura's strait
With his rudder gone:
Where, over the deep of love,
The end lies, I do not know.
(Sone no Yoshitada)

由良のとを 渡る舟人 かぢをたえ
ゆくへも知らぬ 恋の道かな
(曽禰好忠)

【ひとこと】

「由良(ゆら)の海峡を漕ぐ船乗りが舵を失ったように、恋の深みの先のどこに終着があるのか、私には分からない。」英語はこのような意味です。

元の歌の第1句目「由良のと」の「と」は、海峡、瀬戸、河口などの意味です。

第3句の「かぢ」は、櫂(かい)や櫓(ろ)など、船を操作する道具の総称です。「かぢを(緒)」は「かぢ」をつなぐ紐であると解釈できます。

第3句までは序詞であり、第4句の「ゆくへも知らぬ」につながっていきます。他の歌では音でつながる序詞も多く見られますが、この歌では意味でつながっています。

行く末の不安を詠んだ恋の歌です。

英語の「mariner」は「水夫」、「strait」は「海峡」、「rudder」は「舵(かじ)」の意味です。

47. 八重むぐら

今日の歌は「47. 八重むぐら」です。

【歌】

To the dim cottage
Overgrown with thick-leaved vines
In its loneliness
Comes the dreary autumn time:
But there no people come.
(The Monk Egyo)

八重むぐら しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり
(恵慶法師)

【ひとこと】

「葉の茂った草で覆われた薄暗い小屋に、わびしい秋の時が来る。しかし、そこを訪れる人はいない。」英訳はこのような内容です。

元の歌で、「八重むぐら」の「八重」は、「幾重にも」というほどの意味です。英訳では「thick-leaved」と訳出しています。はじめの2句は屋敷の寂しげな様子を描写しています。

第2句から第3句「宿のさびしきに」は、「の」を同格、「さびしき」を形容詞の連体形と解釈すれば、「さびしい宿に」の意味になります。「の」を主格、「に」を接続助詞として、「宿が寂しいので」とする説もあります。

第4句「人こそ見えね」は、係結びの表現です。「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形です。

『拾遺集』の詞書によれば、この歌は当時の川原院の情景を詠んだものであるそうです。川原院は、河原左大臣こと源融(14. みちのくの)の豪華な邸宅でした。彼の死後は荒れ果ててしまい、恵慶の頃には風流人の集う場所となっていたようです。

時代の流れと秋の到来が、ひとつの歌に詠み込まれています。

英語の「dreary」は「わびしい」の意味です。

48. 風をいたみ

今日の歌は「48. 風をいたみ」です。

【歌】

Like a driven wave,
Dashed by fierce winds on a rock,
So am I: alone
And crushed upon the shore,
Remembering what has been.
(Minamoto no Shigeyuki)

風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ
くだけて物を 思ふころかな
(源重之)


【ひとこと】

「風が激しいので、岩に打ち付ける波が砕ける。そのように、私だけが(相手のために)心が砕けてもの思いに沈むこの頃であることだ。」元の歌は、このような意味です。

元の歌のはじめの2句は序詞です。相手を岩に、自分を波に例えています。男の失恋の歌です。

第1句の「いたみ」の「いた(甚)し」は、程度がはなはだしい様子を示します。(ちなみに、現代語の「おめでとう」は「めでたし」、つまり「愛(め)で甚(いた)し」に由来しています。)

英訳の表現も面白いと思います。元の歌の「物を思ふころかな」を、英訳では「remembering what has been」と分詞構文で表現して、余韻を出しています。

49. みかきもり

今日の歌は「49. みかきもり」です。

【歌】

Like the guard's fires
Kept at the imperial gateway--
Burning through the night,
Dull in ashes through the day--
Is the love aglow in me.
(Onakatomi no Yoshinobu)

みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえて
昼は消えつつ 物をこそ思へ
(大中臣能宣朝臣)

【ひとこと】

「宮中の門の衛兵の焚き火のように、夜通し燃え続け、昼には灰にくすぶるのは、私の中で燃える恋である。」英語はこのような意味です。

元の歌のはじめの2句は序詞です。第1句の「みかきもり(御垣守)」は、宮中の門を警護する兵士のことです。

第2句の「衛士(ゑじ)」は、地方から集められた兵士のことです。

昼と夜の様子を対比させて詠んだ恋の歌です。

英語の「aglow」は「燃えて」とか「輝いて」の意味です。

50. 君がため 惜し

今日の歌は「50. 君がため 惜し」です。

【歌】

For your precious sake,
Once my eager life itself
Was not dear to me.
But now it is my heart's desire
It may long, long years endure.
(Fujiwara no Yoshitaka)

君がため 惜しからざりし いのちさへ
長くもがなと 思ひけるかな
(藤原義孝)

【ひとこと】

「かつては、あなたのためなら、自分の命などどうでもよいと思っていた。しかし今では、この命が長く続いて欲しいと心から思っている。」英訳はこのような内容です。

これは元の歌の第1句「君がため」を、第2句「惜しからざり」に係るとした解釈です。この解釈は、現代でも一般的であると思われます。

元の歌は、「君がため」を第4句「長くもがな」に係ると解釈することも可能です。その場合の歌意は「どうでもよいと思っていたこの命さえ、(あなたと会ってからは)あなたのために長くあってほしいと思う」のようになります。

詩歌では、修飾・被修飾関係の曖昧さが、解釈の多様性をもたらすことがあります。これが、英訳はもちろん、日本語の現代語訳においても、難しさと面白さを同時に生じさせることになります。

英訳の4行目以降の文は、「it(=my life) may long, long years endure」という事態が「my heart's desire」であるということです。4行目の「desire」と5行目の「endure」が韻を踏んでいます。

元の歌の第4句の「もがな」は、願望をあらわす終助詞です。

51. かくとだに

今日の歌は「51. かくとだに」です。

【歌】

How can I tell her
How fierce my love for her is?
Will she understand
That the love I feel for her
Burns like Ibuki's fire plant?
(Fujiwara no Sanekata)

かくとだに えやはいぶきの さしも草
さしもしらじな もゆる思ひを
(藤原実方朝臣)

【ひとこと】

元の歌の第2句「えやはいぶきの」の「いぶき」は、「言ふ」と地名の「伊吹」の掛詞となっています。「え」は否定を示す副詞、「やは」は係助詞です。

「かくとだに えやはいぶ」全体で、「(私のあなたに対する思いは、言葉で)『このようです』とさえ、言いあらわすことができません」という意味になります。

第3句の「さしも草」は、よもぎ草のことです。お灸の原料です。「いぶき(伊吹)のさしも草」は序詞となり、後続の「さしも」に同音で続きます。

第4句「さ/し/も/しら/じ/な」は、指示の副詞、強意の副助詞、強意の係助詞、動詞、打消推量の助動詞、詠嘆の終助詞です。下の句「さしもしらじな もゆる思ひを」全体で、「それほどまでとはご存じないでしょうね。(私の)燃える思いを」の意味になります。

出典の詞書によれば、この歌は、作者が思いを寄せる相手にはじめて送った歌であるとのことです。

百人一首では詞書が省かれているため、相手に贈った歌ではなく、独白であるように読むことができます。そのためか、英訳では、相手のことを二人称でなく三人称で表現しています。

英語の「fierce」は「熱烈な」の意味です。

52. あけぬれば

今日の歌は「52. あけぬれば」です。

【歌】

Though I know indeed
That the night will come again
After day has dawned,
Still, in truth, I hate the sight
Of the morning's coming light.
(Fujiwara no Michinobu)

あけぬれば 暮るるものとは 知りながら
なほうらめしき 朝ぼらけかな
(藤原道信朝臣)

【ひとこと】

「日が明けても夜は再び来ることはもちろん分かっているが、それでもやはり朝が来ようとする光の様子は嫌なものだ。」英語はこのような意味です。

英語では「sight」と「light」が脚韻となっています。

英語の「dawn」は「夜が明ける」の意味です。古語の「朝ぼらけ」は、夜が明けて朝がぼんやり見える頃、つまり恋人たちが別れる時刻です。

相手と別れた後(後朝)に読んだ恋の歌です。

53. なげきつつ

今日の歌は「53. なげきつつ」です。

【歌】

Lying all alone,
Through the hours of the night,
Till the daylight comes:
Can you realize at all
The emptiness of that night?
(The Mother of Michitsuna)

なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは
いかに久しき ものとかはしる
(右大将道綱母)

【ひとこと】

この歌は、浮気性の相手に宛てた歌であるとのことです。

第5句の「ものとかはしる」の「かは」は反語の意味の係助詞です。

「(あなたが来ないので)嘆きながら独りで寝る夜が明けるまでの間がいかに長いか、あなたは知っていますか。いえ、ご存知ないでしょうね。」これが元の歌全体の意味になります。

元の歌での第4句で「久しき」(長い)と表現したところを、英語では5行目で「emptiness」(むなしさ)と表現しています。

54. 忘れじの

今日の歌は「54. 忘れじの」です。

【歌】

If remembering me
Will for him in future years
Be too difficult,
It would be well this very day
That I should end my life.
(The Mother of Gido Sanshi)

忘れじの ゆく末までは かたければ
今日をかぎりの いのちともがな
(儀同三司母)

【ひとこと】

女の恋の歌です。

「『(あなたのことはこの先も)忘れない』(と、あなたが言う恋)の行く末が(果たしてどのようになるかは)計り難いので、(私の)命は(この幸せな)今日限りであって欲しいと思う。」これが元の歌の解釈です。

「彼が私のことをずっと忘れないでいることが難しいのであれば、私の命が尽きるのが今日この日であっても構わない。」英訳はこのような内容です。

元の歌の第3句「かたければ」は、已然形に続く接続助詞「ば」の形式で、確定条件を示しています。先のことは分からないと歌人は述べています。一方、英語は「if」を使った仮定の表現となっており、元の歌と少し印象が変わっています。

55. 滝の音は

今日の歌は「55. 滝の音は」です。

【歌】

Though the waterfall
Ceased its flowing long ago,
And its sound is stilled,
Yet, in name it ever flows,
And in fame may yet be heard.
(Fujiwara no Kinto)

滝の音は たえて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ
(大納言公任)

【ひとこと】

「滝の流れはずっと昔に止まり、その音も静かになった。しかし、滝の名声は流れていて、その評判を今も聞くことができる。」英語はこのような意味です。

元の歌では、はじめの2句で「タ」、後半の3句で「ナ」の頭韻を踏んでおり、声に出して面白い歌となっています。

この歌は、かつての天皇の離宮として作られた場所で、今は枯れてしまった滝を見て読んだ歌であるとのことです。

56. あらざらむ

今日の歌は「56. あらざらむ」です。

【歌】

Soon my life will close.
When I am beyond this world
And have forgotten it,
Let me remember only this:
One final meeting with you.
(Lady Izumi Shikibu)

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
いまひとたびの あふこともがな
(和泉式部)

【ひとこと】

「私がもう生きてはいないであろうこの世とは別の世界への思い出として、いま一度(あなたと)会いたいのです。」元の歌はこのような意味です。技巧のない直接的な歌です。

第2句にある「この世のほか」とは、あの世のことです。

第5句の「もがな」は、願望を示す終助詞です。実際には会うことが難しかったのでしょう。

最後に相手ともう一度会って、それを思い出としてあの世へ行こうと言っています。病床で詠まれた恋の歌です。

英訳では、相手との最後の逢瀬を、あの世へ持っていくただひとつの思い出にしたいと言っています。

57. めぐりあひて

今日の歌は「57. めぐりあひて」です。

【歌】

Meeting on the path:
But I cannot clearly know
If it was he,
Because the midnight moon
In a cloud had disappeared.
(Lady Murasaki Shikibu)

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに
雲がくれにし 夜半の月かな
(紫式部)

【ひとこと】

「道で出会ったが、それが彼であったのかはっきり分からなかった。深夜の月が雲に隠れてしまったので。」英訳はこのような意味です。

日本語の「夜半」は、夜中、夜更けの意味です。

『古今和歌集』の詞書によれば、久しぶりに再開した幼馴染みについて詠んだ歌であるとのことです。しかし幼馴染みとは誰でしょうか。

元の歌では表現されていませんが、英訳では出会った相手のことを「he」と男性形で表現しています。とはいえ、相手が男性であるということではなく、性別が不明なので男性形で表現しているのかもしれません。

ところで英訳では「I cannot clearly know if it was he」と対象が人となっていますが、元の歌の「めぐりあひて見しやそれともわかぬ」の文法上の対象は「月」であると考えられます。元の歌では、あらわれたと思いきや、はっきりしないうちに雲に隠れてしまった月を詠むことで、間接的に相手のことを表現しています。

58. ありま山

今日の歌は「58. ありま山」です。

【歌】

As Mount Arima
Sends its rustling winds across
Ina's bamboo plains,
I will be just as steadfast
And never will forget you.
(Daini no Sanmi, Lady Kataiko)

ありま山 ゐなの笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする
(大弐三位)

【ひとこと】

元の歌は、第4句の「そよ」が掛詞となっており、笹がそよぐ様子と、「そういうことですよ」という意味が込められています。

上の句は、この「そよ」を導くための序詞となっています。

第4句の「いで/そ/よ」は、勧誘や決意を示す副詞、指示代名詞、終助詞です。

元の歌は、「有馬山の猪名の笹原に風が吹くと、(笹の葉は応えるように)そよぎます。ほら、そうですよ。私があなたをどうして忘れるというのでしょうか」という意味です。

つまり、「風が吹けば笹がそよぐように、音信があれば応えるものです。相手のことを忘れているのはあなたの方ではないのですか」と、疎遠になった男に書き送った恋の歌です。

「有馬山が猪名の笹原をかさかさ鳴らす風を送るように、私が心変わりすることはありませんし、あなたを忘れることも決してありません。」英訳はこのような内容です。

元の歌は反語を使って読み手の気持ちを表現しています。これを英訳では、「will」を使った意思の表現としています。

英語の「rustle」は「(音が)鳴る」、「steadfast」は「変わらない」の意味です。

大弐三位(だいにのさんみ)の名前は堅子(かたこ、かたいこ)です。紫式部の娘にあたります。

59. やすらはで

今日の歌は「59. やすらはで」です。

【歌】

Better to have slept
Care-free, than to keep vain watch
Through the passing night,
Till I saw the lonely moon
Traverse her descending path.
(Lady Akazome Emon)

やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて
かたぶくまでの 月を見しかな
(赤染衛門)

【ひとこと】

元の歌のはじめの2句「やすらはで寝なましものを」で、「やすらう」は「ためらう」の意味、「な」は完了の助動詞の未然形、「まし」は反実仮想の助動詞です。全体で、「ためらわずに寝てしまったものを」の意味です。その前に「あなたが来ないと分かっていれば」のような言葉が省略されていると考えられます。

実際には、相手が来てくれるかどうか分からなかったので、あるいは来てくれることを期待する気持ちがあったので、起きて待っていたのです。

この部分について英訳では、「better... than...」と比較表現を導入することで、詠み手の残念な気持ちを表現しています。

「かたぶくまでの月」は、西に傾いた月のことで、もうすぐ夜が明けてしまう時間になってしまった事態を示しています。

60. 大江山

今日の歌は「60. 大江山」です。

【歌】

By Oe Mountain
The road to Ikuno
Is far away,
And neither have I beheld
Nor crossed its bridge of heaven.
(Lady Koshikibu)

大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天の橋立
(小式部内侍)

【ひとこと】

この歌の理解には背景の解説が必要です。小式部内侍は和泉式部(56. あらざらむ)の娘にあたります。ともに中宮に仕えていたので、母と区別するために彼女は「小式部」と呼ばれていました。

小式部はそのとき既に歌人として注目されていましたが、母が歌を代作しているとの心ない噂も立っていました。

当時彼女の母は夫の任地である丹後にいました。そこである男が小式部に「お母様に代作を頼む手紙はもう送りましたか」と意地悪で尋ねたところ、その場で作って返したのがこの歌であるとのことです。

「大江山を越え、生野を通って(母のいる丹後へ)向かう道は(とても)遠いですから、まだ(丹後にあるという)天の橋立を踏んだことはありませんし、(母からの)手紙も見てはいません。」元の歌はこのような意味です。

元の歌では、第2句の「いく野」が「行く」と「生野」(丹後の地名)の掛詞、第4句の「ふみもみず」が「(天の橋立を)踏みもみず」と「(母からの)文も見ず」という掛詞になっています。

大江山と生野は、京から丹後へ向かう途中にあります。天の橋立はその丹後にあります。

英訳からは手紙の件が消えています。訳文の限られた語数に掛詞の意味を押し込めるのが難しかったものと思われます。

英語の「beheld」は、「眺める」の意味の「behold」の過去分詞です。

61. いにしへの

今日の歌は「61. いにしへの」です。

【歌】

Eight-fold cherry flowers
That at Nara--ancient seat
Of our state--have bloomed,
In our nine-fold palace court
Shed their sweet perfume today.
(Lady Ise no Osuke)

いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に 匂ひぬるかな
(伊勢大輔)

【ひとこと】

元の歌の第4句の「九重(ここのへ)」は、ここでは宮中を指した表現ですです。城を九重の門で囲ったという、中国の故事に由来した表現です。英訳では「our nine-fold palace court」(九重の宮中)と表現されています。

また、「九重」には、「八重桜よりいっそう華々しく」という歌人の気持ちが込められていると考えられます。

八重桜は古都奈良で見られる桜であり、当時京では珍しいものであったようです。この歌は、その八重桜が宮中に献上されるのに際して詠まれた歌であるとのことです。

英語の「shed」は「(匂いを)放つ」という意味です。嗅覚です。

日本語の古語の「匂ふ」は、現代語とは異なり、「色が映える」という意味です。嗅覚でなく視覚です。(いろは歌の「色は匂へど 散りぬるを」も視覚の意味で使われています。)

「伊勢大輔」は、百人一首の世界では「いせのたいふ」という読み方の方が一般的であると思います。

62. 夜をこめて

今日の歌は「62. 夜をこめて」です。

【歌】

The rooster's crowing
In the middle of the night
Deceived the hearers;
But at Osaka's gateway
The guards are never fooled.
(Lady Sei Shonagon)

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ
(清少納言)

【ひとこと】

この歌には背景の解説が必要です。『後拾遺集』の詞書によれば、鳥の鳴き声のまねをして夜更けに門を開けさせようとしたという中国の函谷関(かんこくかん)の故事に基づいた歌であるとのことです。

元の歌の第1句「夜をこめて」は、「夜が明けないうちに」の意味です。第4句の「よ(世)に」は、「絶対に(ない)」の意味の副詞です。

元の歌の全体の意味は、「夜が明けないうちに鳥の鳴きまねを(して門を開けさせようと)計っても、(女と男が会うという)逢坂の関は(あなたの通過を)断じて許しません」となります。

作者に言い寄ってきた男を断った歌です。

英語の「rooster」は「おんどり」の意味です。

63. いまはただ

今日の歌は「63. いまはただ」です。

【歌】

Is there any way
Except by a messenger
To send these words to you?
If I could, I'd come to you
To say goodbye forever.
(Fujiwara no Michimasa)

いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで 言ふよしもがな
(左京大夫道雅)

【ひとこと】

「使者を介してでなく、この言葉をあなたに届ける方法はないだろうか。できることなら、最後のさよならを告げに、あなたのもとに行きたいのに。」英語では仮定法を使って、歌人が置かれた困難な状況を表現しています。

元の歌で、第2句「思ひ絶えなむ」の「む」は、意思を示します。第5句の「よし(由)」は「方法」の意味です。最後の「もがな」は、実現しそうにない事柄に対する願望を表現しています。

許されない相手との恋を詠った男の歌です。

64. 朝ぼらけ 宇治の

今日の歌は「64. 朝ぼらけ 宇治の」です。

【歌】

In the early dawn
When the mists on Uji River
Slowly lift and clear,
From the shallows to the deep,
The stakes of fishing nets appear.
(Fujiwara no Sadayori)

朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに
あらはれわたる 瀬々の網代木
(権中納言定頼)

【ひとこと】

「夜明け早く、宇治川の霧がゆっくりと消えていく頃、浅瀬から深い方へかけて、漁の網をかける杭があらわれてくる。」これが英訳の意味です。

霧が晴れる様子を、元の歌では「絶え絶え」(途切れ途切れ)と表現しています。これに対して英訳では「from the shallows to the deep」と奥行き感をもって描写しているのが面白いと思います。

古語の「朝ぼらけ」は、朝に辺りがほのぼのと明るくなる頃です。「網代(あじろ)」は川で鮎を採るための仕掛けで、「網代木」はそのための杭です。

英語の「shallow」は形容詞でもありますが、ここでは複数形となっており名詞の「浅瀬」の意味です。「Stake」は杭です。

65. うらみわび

今日の歌は「65. うらみわび」です。

【歌】

Even when your hate
Makes me stain my sleeves with tears
In cold misery,
Worse than hate and misery
Is the loss of my good name.
(Lady Sagami)

うらみわび ほさぬ袖だに あるものを
恋にくちなむ 名こそをしけれ
(相模)

【ひとこと】

失恋を歌にしています。

元の歌で第1句「うらみわび」の「わぶ」は、「気落ちする」の意味です。「恨み」を「わび」に続くと解釈して、「(私を振った相手のことを)恨む気力もなく」と読むことができます。

第2句「ほ(干)さぬ袖だに」の「だに」という言葉は、程度の軽い例をあげて、より重いものを強調する表現です。

第2句以降の意味は、「(涙で濡れて)乾かす暇もない袖(が朽ちていくこと)さえ惜しいのに、恋のおかげで私の名声が朽ちていくことはもっと惜しい」ということです。

これとは別に、「(涙で濡れて)乾かす暇もない袖でさえ(朽ちることなくこうして)あるというのに、恋のおかげで私の名声が朽ちていくことが惜しい」とする解釈もあるようです。

英語の「stain」は、「汚す」とか「染める」という意味です。「Hate」は「嫌なこと」、「misery」は「惨めさ」の意味です。英語の「name」には「名声」の意味合いがあります。

66. もろともに

今日の歌は「66. もろともに」です。

【歌】

On a mountain slope,
Solitary, uncompanioned,
Stands a cherry tree.
Except for you, lonely friend,
To others I am unknown.
(Abbot Gyoson)

もろともに あはれと思へ 山桜
花よりほかに 知る人もなし
(前大僧正行尊)

【ひとこと】

「山の峰に、ひとりで友もなく、桜の木が立っている。さびしい友であるお前の他に、私を知る者はいない。」これが英訳の意味です。

ちなみに、「a cherry tree」という表現から、英訳では桜の木がひとつである設定であることが分かります。作者の孤独な状況が表現されています。

元の歌は、「私がお前にしみじみと思うように、お前も私のことをしみじみと思ってくれ、山桜よ。(私には)山桜のほかに友もいないのだから」というような意味です。山桜に向かって語りかけています。

印象が少し異なりますが、どちらも面白いと思います。

67. 春の夜の

今日の歌は「67. 春の夜の」です。

【歌】

If I lay my head
Upon his arm in the dark
Of a short spring night,
This innocent dream pillow
Will be the death of my good name.
(Lady Suo)

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に
かひなくたたむ 名こそをしけれ
(周防内侍)

【ひとこと】

「春の短い夜の闇の中、あなたの腕に私の頭を添わすことになれば、そのたわいない夢枕のせいで、私の名は廃れてしまうでしょう」という具合に英語に訳されています。

古語の「名」が英語では「my good name」と訳されています。英語の「name」には「評判」の意味合いがあります。訳者は相模(65. うらみわび)の歌にある「名」も同様に「my good name」と訳出しています。

また英訳では、春の夜が短いというイメージも汲み取られています。

元の歌で、下の句の「かひなくたたむ名こそをしけれ」は、「甲斐なく立つであろう評判が惜しいことですよ」という意味です。句の中に「腕(かひな)」の掛詞が組み込まれています。

この歌は、人々が夜通しおしゃべりをしていたときに、作者が眠くなって「枕が欲しい」と言ったところに、通りがかった男が「私の腕はいかがですか」などと戯言を言って腕を差し出したことに対して、機知を利かせて詠んだ歌であるそうです。男の申し出をさらりと流しています。

作者の名前は、彼女の父が周防(すおう)の国の役人であったことに由来しています。「内侍」(ないし)は役職です。

68. 心にも

今日の歌は「68. 心にも」です。

【歌】

Though I do not want
To live on in this floating world,
If I remain here,
Let me remember only
This midnight and this moonrise.
(Emperor Sanjo)

心にも あらでうき世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな
(三条院)

【ひとこと】

江戸時代の浮世絵の「浮世」が「floating world」と訳されているのをよく目にします。この英訳においても同じ訳語が採用されています。

「うき世」の元の意味は、「憂き世」つまり、つらい思いをする世の中の意味です。人が世をつらく思う背景には、世の中で起こる事象の無常さ、流動性があると言えます。

元の歌の上の句は、「本意ではなく(この)つらい世の中を生き永らえば」の意味です。

『後拾遺集』の詞書によれば、眼病で皇位を退こうとしたときに、最後の月の明かりを見て作った歌であるとのことです。

最後の部分は、動詞の未然形に「ば」が続く形で、仮定条件を示しています。作者はこの歌を作った翌年に亡くなってしまいました。

訳文の「let me remember only...」という表現は、和泉式部の歌(56. あらざらむ)でも使われています。

69. あらし吹く

今日の歌は「69. あらし吹く」です。

【歌】

By the wind storm's blast
From Mimuro's mountain slopes
Maples leaves are torn,
Which turn Tatsuta River
Into a rich brocade.
(The Monk Noin)

あらし吹く み室の山の もみぢばは
竜田の川の 錦なりけり
(能因法師)

【ひとこと】

「三室の山の斜面に吹いた嵐の風でもみじの葉が散らされて、竜田川の錦となった。」英訳はこのような意味です。

紅葉で有名なふたつの名所をひとつの歌に読み込んだ、面白い歌です。

英語の「blast」は「突風」の意味です。「Torn」は「tear」(引き裂く)の過去分詞です。

この歌の「もみぢ」は、植物分類としてのカエデだけでなく、そこで色付いているすべての種類の木を指していると考えられます。葉は赤、黄、緑とさまざまに色づくので、錦のようであると表現されるのです。英訳では「maple」と訳出されています。英語の「maple」ではどのような光景になるのか想像するのもまた面白いと思います。

余談ですが、カエデの語源は「かえるで」であり、葉の形が蛙の手に似ていることに由来しているのだそうです。

70. さびしさに

今日の歌は「70. さびしさに」です。

【歌】

In my loneliness
I leave my little hut.
When I look around,
Everywhere it is the same:
One lone, darkening autumn eve.
(The Monk Ryosen)

さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば
いづくもおなじ 秋の夕ぐれ
(良選法師)

【ひとこと】

秋の歌です。定家の時代には、「寂しい秋の夕ぐれ」という主題が歌の型として成立していたようです。

元の歌で、「宿」は作者が住んでいた庵を指すと考えられます。

英語の「hut」は「小屋」、「lone」は「ひとりの」という意味です。英訳でも歌の感じがよく出ていると思います。

作者の漢字は、旧字では「良法師」となります。「いづもおなじ」は文献によっては「いづもおなじ」となっていますが、どちらが正しいのか分かりません。

71. 夕されば

今日の歌は「71. 夕されば」です。

【歌】

When the evening comes,
From the rice leaves at my gate,
Gentle knocks are heard,
And, into my round rush-hut,
Enters autumn's roaming breeze.
(Minamoto no Tsunenobu)

夕されば 門田の稲葉 おとづれて
蘆のまろやに 秋風ぞ吹く
(大納言経信)

【ひとこと】

秋の風景を歌にしています。

「夕方になると、門の近くの田から穏やかな音が聞こえてきて、私の丸い葦小屋に秋のそよ風が入ってくる。」英語はこのような意味です。

元の歌の第1句「夕されば」の「さる」は「変化する」の意味です。現代語の「去る」とは異なります。第1句全体で「夕方になると」という意味になります。

次の「門田(かどた)」は、屋敷の門の辺りの田という意味です。

第3句の「おとづれて」は、英訳で「gentle knocks are heard」と表現しています。考えられた訳であると思います。古語の「おとづれる」の意味は、「音を立てる」です。(この言葉は現代語の「訪れる」の語源です。)

第4句の「蘆のまろや」は、葦で作られた小屋という程の意味です。ここでは作者の屋敷を指していると考えられます。英訳では「まろ」を「round」(丸い)と解釈しています。

英語の「roam」は「歩き回る」、「rush」は「い草」の意味です。

72. 音に聞く

今日の歌は「72. 音に聞く」です。

【歌】

Famous are the waves
That break on Takashi beach
In noisy arrogance.
If I should go near that shore.
I would only wet my sleeves.
(Lady Kii)

音に聞く 高師の浜の あだ波は
かけじや袖の ぬれもこそすれ
(祐子内親王家紀伊)

【ひとこと】

『金葉集』の詞書によれば、この歌は歌合の返歌として作られた歌です。「寄る波のようにあなたにお会いしたい」などと言い寄った男の申し出を断わる歌です。

「高師の浜に打ち上げる波は、とても身勝手であるという評判です。もし私があの岸に近づけば、ただ袖を濡らしてしまうだけでしょう。」英訳はこのような意味です。

「名高い高師の浜のいたずらな波は(私の袖に)かけないようにしましょう。(悪い噂の高いあなたに思いをかけるは、やめようと思います。)(波やら涙やらで)袖が濡れてしまうと困りますから。」元の歌は、このような意味です。

第4句「かけじ」の「じ」は打消意思です。第5句「ぬれもこそすれ」の「もこそ」は、悪い事態に対する不安を示します。これらの内容を英訳では仮定法を使って表現しています。

英語の「arrogance」は「横柄、傲慢」の意味です。

73. 高砂の

今日の歌は「73. 高砂の」です。

【歌】

On that far mountain
On the slope below the peak
Cherries are in flower.
Oh, let the mountain mists
Not arise to hide the scene.
(Oe no Masafusa)

高砂の をのへのさくら さきにけり
とやまのかすみ たたずもあらなむ
(前権中納言匡房)

【ひとこと】

元の歌の第1句目にある「高砂」は「山」の意味と考えられます。地名であるとする説もあります。第2句の「をのへ(尾の上)」は、「峰の上」つまり「山頂」のことです。

第4句目の「とやま(外山)」は、人里に近い山の意味です。ちなみに、反対に人里離れた山は「奥山」です。

「かすみ(霞)」は、春に立つ「mists」のことです。秋に立つ「mists」は、古語では「きり(霧)」と言い分けるようです。

第5句「たたずもあらなむ」の「なむ」は、他者への願望を示す終助詞です。

「遠くの山のその峰に、桜の花が咲いている。おお、山の霞よ、霞を立ててこの風景を隠さないでおくれ。」英訳はこのような意味です。

元の歌では、桜の状景と霞への願望が別の文として並置されています。意味を考えれば、霞が立つと困る理由は桜が見えなくなるからであるとことはすぐに分かります。英訳では「not arise to hide the scene」と、文脈を明示的に表現しています。

74. 憂かりける

今日の歌は「74. 憂かりける」です。

【歌】

It was not for this
I prayed at the holy shrine:
That she would become
As pitiless and as cold
As the storms on Hase's hills.
(Minamoto no Toshiyori)

憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ
はげしかれとは 祈らぬものを
(源俊頼朝臣)

【ひとこと】

「聖地でお祈りしたのは、こんなことのためではなかった。あの人が初瀬の丘の嵐のように無情で冷淡になるなんて。」英語はこのような意味です。

「初瀬の山おろしよ。(私が恋の思いで)辛く思っているあの人のが、激しく(冷淡に)なるようにとは祈っていないのに。」元の歌はこのような内容です。

初瀬は長谷寺で有名です。歌人はそこで冷淡な相手が自分に振り向いてくれるようにお祈りしました。しかし、その後も相手は振り向いてくれないという、恋の歌です。

第3句の「山おろし」は、山から吹きおろす冷たい風のことです。

75. ちぎりおきし

今日の歌は「75. ちぎりおきし」です。

【歌】

As dew promises
New life to the thirsty plant,
So did your vow to me.
Yet the year has passed away,
And autumn has come again.
(Fujiwara no Mototoshi)

ちぎりおきし させもが露を いのちにて
あはれ今年の 秋もいぬめり
(藤原基俊)

【ひとこと】

「露が乾いた植物に新しい命を約束するように、あなたは私に確かに誓った。しかし、年は過ぎ去ってしまい、再び秋が来てしまった。」英訳はこのような意味です。

元の歌で、第1句の「ちぎり(契り)おき」は、「約束しておく」の意味です。第2句の「させも」は、よもぎ草のことです。

第5句「秋もいぬめり」の「いぬ(往ぬ)」は、「過ぎ去る」の意味です。英訳と季節が少しずれているようです。最後の「めり」は視覚推量です。

『千載集』の詞書によれば、この歌は、僧侶である作者の息子に役目を与えてくれるよう人に頼んだものの、その願いが実現しなかったことについて詠んだものであるとのことです。

76. わたの原 こぎいでて

今日の歌は「76. わたの原 こぎいでて」です。

【歌】

Over the wide sea
As I sail and look around,
It appears to me
That the white waves, far away,
Are the ever shining sky.
(Fujiwara no Tadamichi)

わたの原 こぎいでてみれば 久方の
雲いにまがふ 沖つ白波
(法性寺入道前関白太政大臣)

【ひとこと】

船に乗って海に漕ぎ出したときの、眼前に広がる空と海の光景を詠んだ歌です。

元の歌の第1句の「わたの原」は大海原のことです。「わた」は古語で「海」の意味があります。

第3句の「久方(ひさかた)の」は、「雲い」に続く枕詞です。

第4句「雲いにまがふ」の「雲い(雲居)」は、雲のいる場所、つまり空のことです。英訳では字義通り「sky」と訳されています。しかし、元の歌の意味を考えると雲そのものを指していると解釈できます。続く「まがふ」は「混ざり合う」の意味です。

したがって、下の句の意味は「雲と見分けが付かない沖の白波」ということになります。

「大海原に向かって漕ぎ出して辺りを見渡すと、遠くかなたの白い波が、輝ける空であるように見える。」英訳はこのような意味です。歌のイメージがよくつかめていると思います。

作者の「法性寺関白」は、藤原忠通(ただみち)の号です。

余談ですが、「わたの原」で始まる歌は、百人一首の中にもう一首、参議篁の歌(11. わたの原 八十島かけて)があります。同じ大海原でも、境遇が違うとかなり異なって感じられるようです。

77. 瀬をはやみ

今日の歌は「77. 瀬をはやみ」です。

【歌】

Though a swift stream is
Divided by a boulder
In its headlong flow,
Though divided, on it rushes,
And at last unites again.
(Emperor Sutoku)

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末に あはむとぞ思ふ
(崇徳院)

【ひとこと】

元の歌の第1句「瀬をはやみ」の「瀬」は、川の流れの浅いところです。格助詞「を」は主格です。「み」は原因を示します。句全体で「瀬(の流れ)が速いので」の意味です。

第1句の修飾先は、下の句の「われても末にあはむ」であると考えることができます。水が勢いよく流れているので、流れが再び合流できるということです。

第2句「岩にせかるる」は「岩にせき止められる」の意味です。

第5句「あはむとぞ思ふ」の「む」は、詠み手の意思を示しています。相手との再会の意思を述べた恋の歌です。

英語の「swift」は「速い」、「boulder」は「大きな岩」、「headlong」は「急激な、まっさかさまの」の意味です。

78. 淡路島

今日の歌は「78. 淡路島」です。

【歌】

Guard of Suma Gate,
From your sleep, how many nights
Have you awakened
At the cries of sanderlings,
Flying from Awaji Island?
(Minamoto no Kanemasa)

淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に
幾夜ねざめぬ 須磨の関守
(源兼昌)

【ひとこと】

「須磨の関の番人よ、お前は淡路島から飛ぶ千鳥の鳴き声を聞いて、どれだけの夜、眠りから覚めたのだろうか。」英訳はこのような意味です。

須磨の関の光景を詠んだ歌です。題詠とのことです。

千鳥は歌では冬の鳥として詠まれ、その鳴き声は連れを求める声であると考えられていました。

元の歌の冒頭の「淡路島かよふ千鳥」という表現は、「淡路島に通って行く千鳥」なのか「淡路島から通って来る千鳥」なのか判断が付きません。英訳では後者の解釈を採用しています。

元の歌の第4句「幾夜ねざ(寝覚)めぬ」の「ぬ」は完了の助動詞の終止形です。この主語は「須磨の関」であり、倒置文となっています。この部分を英訳では、「you」を使った疑問文として効果を出しています。

元の歌では「須磨の関守」は最後に来ます。これに対して英訳では、「guard of Suma Gate」がはじめに登場します。自分が訳すならどうするかを考えながら鑑賞すると、こうした表現の変化を楽しむことができると思います。

79. 秋風に

今日の歌は「79. 秋風に」です。

【歌】

See how clear and bright
Is the moonlight finding ways
Through the riven clouds
That, with drifting autumn wind,
Gracefully float in the sky.
(Fujiwara no Akisuke)

秋風に たなびく雲の たえ間より
もれいづる月の 影のさやけさ
(左京大夫顕輔)

【ひとこと】

「見よ。なんと澄み切った明るい月光だろうか。秋風に吹かれて空を穏やかに流れるちぎれ雲から差し込む月光よ。」英訳の内容は、このような感じです。元の歌と言葉が出てくる順序が異なるので、味わいを比較すると面白いと思います。

英語の「riven」は「rive」の過去分詞で、「ちぎれる、裂ける」の意味です。「Gracefully」は「優雅に、潔く」の意味です。

古語の「影」は、現代語の「光」の意味です。英訳では「moonlight」と訳されています。「さやけさ」は、くっきりと澄み切った様子を示します。

80. 長からむ

今日の歌は「80. 長からむ」です。

【歌】

Is it forever
That he hopes our love will last?
He did not answer.
And now my daylight thoughts
Are as tangled as my black hair.
(Lady Horikawa)

長からむ 心もしらず 黒髪の
みだれてけさは 物をこそ思へ
(待賢門院堀河)

【ひとこと】

朝、男が帰った後に残された女の心を詠んでいます。

元の歌のはじめの2句は、「『(この恋は)永遠だ』という(あなたの)本意は分かりません」のような意味です。第1句「長からむ」の「む」は、婉曲です。

これを英訳では、「he did not answer」と会話のように仕立てています。面白い読み方だと思います。

英語の「tangle」は、「もつれる、絡む」の意味です。元の歌の「みだれて」は、黒髪の様子と彼女の心のありようの両方を示していると解釈できます。これが英語で上手く訳されています。

作者の名前は、時の皇后であった待賢門院(たいけんもんいん)に仕えていたことに由来します。

81. ほととぎす

今日の歌は「81. ほととぎす」です。

【歌】

When I turned my look
Toward the place where I had heard
The cuckoo's call,
The only thing I found
Was the moon of early dawn.
(Fujiwara no Sanesada)

ほととぎす 鳴きつる方を ながれむれば
ただありあけの 月ぞ残れる
(後徳大寺左大臣)

【ひとこと】

夏の朝の歌です。

古語の「ほととぎす」は、現代語の「cuckoo」(かっこう)のことです。日本では中国大陸から初夏に飛来します。

82. 思ひわび

今日の歌は「82. 思ひわび」です。

【歌】

Though in deep distress
Through your cruel blow, my life
Still is left to me.
But I cannot keep my tears;
They break forth from my grief.
(The Monk Doin)

思ひわび さてもいのちは あるものを
憂きにたへぬは 涙なりけり
(道因法師)

【ひとこと】

恋の歌です。

元の歌の第1句の「思ひわび」は、「(恋ごとに)思い悩み」という意味です。恋に思い悩んだからといって、命が消えてしまうわけでもなく、悲しみに耐えられない涙がただ流れていく、という内容を詠っています。

坊主が人の気持ちになって詠んだ歌です。歌詠みというのは、坊主であっても、人の気持ちになることができるのでしょうか。百人一首の中には、坊主の詠んだ恋の歌が、他にも数首選ばれています。

83. 世の中よ

今日の歌は「83. 世の中よ」です。

【歌】

From this world I think
That there is nowhere to escape.
I wanted to hide
In the mountains' farthest depths;
But there I hear the stag's cry.
(Fujiwara no Toshinari)

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
(皇太后宮大夫俊成)

【ひとこと】

鹿の題詠であるとのことです。

「この世から逃れて行く場所はないようだ。山の奥深くに身を隠そうと思ったが、そこで耳にするのは、鹿の鳴き声だ。」英語はこのような意味です。

元の歌は、「世の中というものよ。(この世には、嫌なことから逃れる)方法などないのだ。(隠遁しようと)思いつめて入った山の奥でも鹿が(悲しそうに)鳴いているようだ」のような意味です。

最後の「鹿ぞ鳴くなる」の「なる」は、聴覚による推量を示します。

英語の「farthest」は「far」(遠い)の最上級です。

84. ながらへば

今日の歌は「84. ながらへば」です。

【歌】

If I should live long,
Then perhaps the present days
May be dear to me,
Just as past time filled with grief
Comes quietly back in thought.
(Fujiwara no Kiyosuke)

ながらへば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき
(藤原清輔朝臣)

【ひとこと】

元の歌の第1句「ながらへば」は仮定条件を示します。第3句「しのばれむ」の「む」は推量です。これを英訳では仮定法を使って表現しています。

「もし長生きするようなことがあれば、今日この頃もいとおしく思われるかもしれない。悲しみに満ちた過去が今は静かに思い出されるように。」英語の歌はこのような意味です。

この作者は、若い頃を不遇のうちに過ごしたとのことだそうです。

85. 夜もすがら

今日の歌は「85. 夜もすがら」です。

【歌】

Through an unsleeping night
Longingly I pass the hours,
While the day's dawn lags.
And now the bedroom shutters
Are keeping light and life from me.
(The Monk Shun'e)

夜もすがら 物思ふころは 明けやらで
閨のひまさへ つれなかりけり
(俊恵法師)

【ひとこと】

坊主が男を待つ女の気持ちになって歌を作っています。

元の歌の第2句「物思ふころは」の「ころ」は、「この頃」の意味です。第4句の「閨(ねや)のひま」は、「寝室の(戸の)隙間」という意味です。

歌全体で、「夜通し(恋の)もの思いに耽る今日この頃は、夜がなかなか明けることがなく、寝床の(戸の)隙間までもが(あの人のように)白々しく感じられる」の意味です。

英訳でも感じが出ていると思います。

86. なげけとて

今日の歌は「86. なげけとて」です。

【歌】

Should I blame the moon
For bringing forth this sadness,
As if it pictured grief?
Lifting up my troubled face,
I regard it through my tears.
(The Monk Saigyo)

なげけとて 月やは物を 思はする
かこち顔なる わが涙かな
(西行法師)

【ひとこと】

元の歌で、第2句の「月やは物を」の「やは」は、反語の係助詞です。

上の句の意味は、「嘆けといって、月は私にもの思いをさせるのだろうか」ということです。

もちろん歌人は、そうではないことに気付いています。悲しさの原因は月のほかにあります。

第4句の「かこち顔なる」は、これ一語で形容動詞であると言えますが、「かこち」という部分は、「(他のものの)せいにする」という意味の動詞「かこつ」に由来しています。

下の句は、「月のせいで悲しいとでもいいたげな、私の涙だ」という意味になります。

「この沸き起こる悲しさを、月のせいにするべきだろうか。途方にくれた顔を持ち上げて、涙の向こうに月を見る。」英訳の描く情景もなかなか面白いと思います。

出典である『千載集』の分類によれば、この歌は恋の歌です。和歌でもの思いといえば、恋についてのもの思いです。歌人は、月の様子ではなく自分の恋のために涙しているという設定を歌にしています。しかし、詠み人も訳者も「恋」という言葉を出していません。

87. 村雨の

今日の歌は「87. 村雨の」です。

【歌】

An autumn eve:
See the valley mists arise
Among the fir leaves
That still hold the dripping wet
Of the chill day's sudden showers.
(The Monk Jakuren)

村雨の 露もまだひぬ まきの葉に
霧たちのぼる 秋の夕ぐれ
(寂蓮法師)

【ひとこと】

秋の歌ですが、定番の紅葉ではなく、常緑樹に目を向けた面白い歌です。

英訳に際して「see」という言葉を入れて、詠み手の視点を新たに導入したところは、興味深いと思います。

元の歌は倒置も句切れもないので、英語にすると単語が登場する順序がちょうど逆になります。そのため、同じ光景を描いているはずなのに、視点や時間の変化についての印象が異なっている点が面白いと思います。

第1句の「村雨(むらさめ)」は、「にわか雨」の意味です。漢字では「群雨」または「叢雨」とも書きます。

第2句「露もまだひぬ」の「ひ(干)」は、「乾く」という意味です。句全体で、「露もまだ乾かない」という意味です。

第3句の「まき(真木)」は、英語では「fir」(モミなどの針葉樹)のイメージになるのでしょうか。

英語の「eve」は「夕ぐれ」の意味です。

88. 難波江の

今日の歌は「88. 難波江の」です。

【歌】

After one brief night--
Short as a piece of the reeds
Growing in Naniwa bay--
Must I forever long for him
With my whole heart, till life ends?
(Attendant to Empress Koka)

難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
みをつくしてや 恋ひわたるべき
(皇嘉門院別当)

【ひとこと】

「難波江の葦の一節のような短い夜の後で、これから命が尽きるまで、ずっと彼を慕い続けなければならないのだろうか。」英訳はこのような意味です。

元の歌で、第2句の「かりね」は、「(葦の)刈り根」と「仮寝」の掛詞です。第3句の「ひとよ」は、「(葦の)一節」と「一夜」の掛詞です。

第4句の「みをつくし」は、「身を尽くし」と「澪標」(船の航路を示す標識)の掛詞となっています。

したがって、元の歌は、「難波江の葦の刈り根の一節(のように短い)」、「旅先の仮寝のような一夜」、「澪標(を頼りにして船が海を渡るように)」、「(あなたに)身を尽くして恋を生きる私」という複数のイメージを、技巧的に描いています。

英語の「reed」は、水辺に育つ植物の種類を指しています。「Long for」は、「(人を)熱望する」とか「切望する」の意味です。

作者の名前は、時の皇后であった皇嘉門院(こうかもんいん)に仕えていたことに由来しています。

89. 玉の緒よ

今日の歌は「89. 玉の緒よ」です。

【歌】

Like a string of gems
Grown weak, my life will break now;
For if I live on,
All I do to hide my love
May at last grow weak and fail.
(Princess Shokushi)

玉の緒よ たえなばたえね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする
(式子内親王)

【ひとこと】

元の歌は、「魂の緒よ、絶えてしまうのであれば絶えてしまえ。このまま生き永らえるようなら、(秘めた恋を人に知られないように)忍ぶ力が弱くなって困るから」のような意味です。

この歌の「玉の緒」は魂と肉体をつなぐ紐のことを指しており、人が死ぬと切れると考えられていました。歌では、恋が忍べないようであれば、生命が尽きてしまえと、強い調子で訴えかけています。

「玉」は、もともと宝石の意味です。その意味で、「絶える」や「弱る」は「玉の緒」(宝石をつなぎとめる紐)の状態を示す縁語となっています。

英語では、「玉」を字義通り「gems」(宝石)と訳して、「宝石の紐が擦り切れるように、私の命も今尽きてしまえ」と言っています。

元の歌の「弱りもぞする」は、「ぞ」と「する」が係り結びとなっています。「も」に続いて「ぞ」が来ると、懸念の意味合いが生じます。したがって、「弱ると困ることだ」という意味になります。

作者名の「式子」は、「シキシ」または「ショクシ」と読まれます。

90. 見せばやな

今日の歌は「90. 見せばやな」です。

【歌】

Let me show him these!
Even the fishermen's sleeves
On Ojima's shores,
Though wet through and wet again,
Do not so change their colors.
(Attendant to Empress Inpu)

見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
ぬれにぞぬれし 色はかはらず
(殷富門院大輔)

【ひとこと】

「あの人に見せてやりたいわ。雄島(おじま)の浜の漁師の袖でさえ、濡れに濡れても、これほどまでに色は変わらないというのに。」英訳はこのような意味です。

歌い手の袖が濡れているのは、涙のためです。

元の歌の冒頭「見せばやな」で、「ばや」は願望の終助詞、「な」は詠嘆の終助詞です。

女が男に返した恋の歌です。歌合せで作られた歌であるとのことです。

91. きりぎりす

今日の歌は「91. きりぎりす」です。

【歌】

In my cold bed,
Drawing close my folded quilt,
I sleep alone,
While all through the frosty night
I hear a cricket's lonely sound.
(Fujiwara no Yoshitsune)

きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに
衣かたしき ひとりかも寝む
(後京極摂政前太政大臣)

【ひとこと】

「寒い寝床で、布団を引き寄せて、独り寝る。霜の降りる夜の間中、こおろぎの悲しげな鳴き声を聞く。」英語はこのような意味です。

元の歌で、第3句の「さむしろに」の「むしろ」は粗末な敷物の意味で、「さ」はその接頭辞です。さらに、「寒し」との掛詞となっています。

第4句「衣かたしき」は、相手の衣がないので自分の衣だけを敷いている様子、つまり独り寝の様子を示しています。

第5句「ひとりかも寝む」の「か/も/む」は、疑問の係助詞、強意の係助詞、推量の助動詞です。全体で「独りっきりで寝るのだろうか」の意味になります。

古語の「きりぎりす」は、今日の「こおろぎ」(cricket)の意味です。

この歌は、柿本人麻呂の歌(3. あしびきの)を、本歌のひとつとした歌であるとのことです。

92. わが袖は

今日の歌は「92. わが袖は」です。

【歌】

Like a rock at sea,
At ebb-tide hidden from view,
Is my tear-drenched sleeve:
Never for a moment dry,
And no one knows it is there.
(Lady Sanuki)

わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の
人こそしらね かわくまもなし
(二条院讃岐)

【ひとこと】

女の恋を詠った歌です。題詠であるとのことです。

元の歌の「潮干にみえぬ沖の石の」は、序詞となっています。相手を思う涙で濡れて乾く間もない自分の袖を、潮が引いても見えずに濡れている沖の石にたとえています。

英語の「ebb tide」は「干潮」の意味です。

93. 世の中は

今日の歌は「93. 世の中は」です。

【歌】

If only our world
Could be always as it is!
How moving the sight
Of the little fishing boat
Drawn by ropes along the bank.
(Minamoto no Sanetomo)

世の中は つねにもがもな なぎさこぐ
あまの小舟の 綱手かなしも
(鎌倉右大臣)

【ひとこと】

この歌は、無常という価値観を詠んでいます。

「この世が今あるまま変わらずにあればなあ。漁師の小船が綱で曳かれて岸辺を行くさまよ。」英訳はこのような内容です。

元の歌では、漁師の小船が浜辺で曳かれている光景を、永遠に変わらない光景として感じているように感じられます。時代がどうあっても、漁師は変わらずに船を岸で曳いているのです。

第2句の「つね/に/もがも/な」の「つね(常)」は、「無常」の反対の意味です。「もがも」は、現実しそうにない願望を示す終助詞、「な」は詠嘆です。「世の中は、変化しないものであって欲しいなあ」という意味になります。しかし実際はそうではないので、英訳では仮定法で表現しています。

第3句の「なぎさ(渚)」は、波打ち際です。

第5句の「綱手/かなし/も」の「綱手」は、船を引くための綱です。「かなし」は形容詞で、心が動かされる様子を示します。「も」は詠嘆です。

作者の鎌倉右大臣とは、鎌倉幕府の三代目将軍であった源実朝のことです。

俊成の歌(83. 世の中よ)の「世の中」は「this world」と訳されていますが、この歌では「our world」と訳されています。歌人の生きていた不安定な情勢と彼の立場を考えると、英訳の「our」という表現には深みが感じられると思います。

94. み吉野の

今日の歌は「94. み吉野の」です。

【歌】

From Mount Yoshino
Blows a chill, autumnal wind.
In the deepening night
The ancient village shivers:
Sounds of beating cloth I hear.
(Fujiwara no Masatsune)

み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
ふるさと寒く 衣うつなり
(参議雅経)

【ひとこと】

「吉野の山から冷たい秋の風が吹く。夜は深く、古い村は冷え切って、布を叩く音が聞こえる。」英訳はこのような内容です。

元の歌の第4句で、吉野を「ふるさと」と表現しています。吉野は古代の離宮があった土地であることから、このように呼ばれます。

第5句で「衣う(打)つ」とあるのは、布を柔らかくして光沢を出すための工程を指しています。最後の「なり」は伝聞推定です。

英語の「chill」は「寒い」、「shiver」は「(寒さで)身震いさせる」の意味です。

95. おほけなく

今日の歌は「95. おほけなく」です。

【歌】

From the monastery
On Mount Hiei I look out
On this world of tears,
And though I am unworthy,
I shield it with my black sleeves.
(Abbot Jien)

おほけなく うき世の民に おほふかな
わがたつ杣に 墨染の袖
(前大僧正慈円)

【ひとこと】

「私は比叡山の僧院から、涙の世界を見渡す。身分不相応ではあるが、私は灰色の袖で世界を包む。」これが英訳の内容です。

この歌では、つらい世の中で苦しむ人々に僧侶として救いをもたらそうという、作者の決意が述べられています。

元の歌の第5句の「墨染の衣」は、僧衣の意味です。僧侶の衣はすすけた色をしているからです。ここでは、人々を救うことを、僧衣の袖で覆うと象徴的に表現しています。

「杣(そま)」は、もともと植林する山の意味ですが、ここでは比叡山を指しています。

第3句の「おほけなく(大気無く)」は、ここでは「身の程もわきまえず」という意味です。作者が自分を謙遜した表現です。

英訳には表現されていませんが、「墨染」を「住み初(ぞ)め」の掛詞とする解釈があります。

この歌は作者が延暦寺で修行を始めた頃に詠んだ歌であるとのことです。名前の「大僧正」(だいそうじょう)は、のちの肩書きに由来しています。

96. 花さそふ

今日の歌は「96. 花さそふ」です。

【歌】

Not the snow of flowers,
That the hurrying wild wind whirls
Round the garden court:
What withers and falls away
In this place is I myself.
(Fujiwara no Kintsune)

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
ふりゆくものは わが身なりけり
(入道前太政大臣)

【ひとこと】

桜の花を見ながら、自身の老境を詠んだ歌です。

元の歌で、「花さそふ嵐」とあるのは、「花を誘って散らす嵐」という意味です。第4句の「ふりゆく」は、「(花が)降りゆく」と「(人が)古りゆく」(年老いる)の掛詞です。

「庭の急で荒々しい風が萎れさせる花の雪ではなく、この場所で萎れ落ちるものは、私自身なのだ。」英訳はこのような意味です。「ふりゆく」のふたつの意味が丁寧に表現されています。

英語の「wither」は「萎れる、衰える」の意味です。

97. こぬ人を

今日の歌は「97. こぬ人を」です。

【歌】

Like the salt sea-weed,
Burning in the evening calm.
On Matsuo's shore,
All my being is aflame,
Awaiting her who does not come.
(Fujiwara no Teika)

こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くやもしほの 身もこがれつつ
(権中納言定家)

【ひとこと】

元の歌は、「(私は)来ない人を待っている。松穂の浦の夕凪に焼く藻塩のように、私の身も焦がれ(る思いで、あなたを恋焦がれ)ています」というほどの意味です。

第2句の「まつほ(松穂)の浦」は地名ですが、「待つ」の掛詞にもなっています。第3句の「夕なぎ(凪)」は、夕方の風や波のおさまった頃のことです。第4句の「もしほ(藻塩)」とは、海草を焼いて作る塩です。

当時の習慣である通い婚を考えると、これは男が来るのを女が待っている歌です。女の気持ちになって作者が作った歌です。

このように男が女の視点で詠んだ歌が、百人一首の中には数首あります。

英訳では、「awaiting her」とあるように、男女の設定が逆になっています。現代人が読むとどちらを主語にしてもありそうな歌に思われてしまうのは、面白いことではないでしょうか。

98. 風そよぐ

今日の歌は「98. 風そよぐ」です。

【歌】

To Nara's brook comes
Evening, and the rustling winds
Stir the oak-trees' leaves.
Not a sign of summer left
But the sacred bathing there.
(Fujiwara no Ietaka)

風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは
みそぎぞ夏の しるしなりける
(従二位家隆)

【ひとこと】

元の歌の第2句「なら」は、「奈良」と植物の「なら(楢)」の掛詞です。英訳では「風そよぐなら(楢)」と「なら(奈良)の小川」の意味をそれぞれ丁寧に訳しています。

第4句の「みそぎ(禊)」は、『新勅撰集』の詞書によれば、六月祓(みなづきばらえ)の行事を指しているとのことです。川の水で身を清める儀式だそうです。

秋を感じさせる様子であるが、みそぎの行事がまだ夏であることを物語っているという内容の歌です。

この歌は、屏風歌として詠まれた一首であるとのことです。

英語の「brook」は「小川」、「rustle」は「(風が)かさかさと鳴らす」、「stir」は「動かす、かき混ぜる」の意味です。「Oak」は、「柏(かしわ)、楢(なら)」などの種類の木を指します。

99. 人もをし

今日の歌は「99. 人もをし」です。

【歌】

For some men I grieve;
Some men are hateful to me;
And this wretched world
To me, with all my sadness,
Is a place of misery.
(Emperor Gotoba)

人もをし 人もうらめし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は
(後鳥羽院)

【ひとこと】

元の歌の第1句の「を(惜)し」は、「いとおしい」意味です。第3句の「あぢき(味気)なく」は、「面白くない」とか「苦々しい」の意味です。

歌全体で、「世の中を面白くなく思うので、もの思いする私には、人がいとおしく感じられたり、恨めしく感じられる」という意味になります。第2句までとそれ以降が倒置となっています。

作者の不安定な気持ちが表現されています。この歌の背景には、皇族の権力が低下し、何かにつけて思い通りにならなくなった作者の境遇があります。百人一首のはじめの天智天皇と持統天皇は親子ですが、百人一首の最後となる後鳥羽院と順徳院も親子も親子の関係にあります。しかし、その時代背景は大きく異なっています。

英語の「grieve」は「悲しむ、悩む」の意味です。「Wretched」は「ひどい、不快な」の意味です。

100. ももしきや

今日の歌は「100. ももしきや」です。

【歌】

In this ancient house,
Paved with a hundred stones,
Ferns grow in the eaves;
But numerous as they are,
My old memories are more.
(Emperor Juntoku)

ももしきや ふるき軒ばの しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり
(順徳院)

【ひとこと】

「宮中の古びた軒の端に忍ぶ草が生えているのを見るに付けても、やはりしのぶにもしのびきれない昔であることだなあ。」元の歌はこのような意味です。

宮中が栄えていた時代を懐かしんで詠まれた歌です。百人一首を締めくくる最後の歌として味わいのある歌であると思います。

第1句目の「ももしき(百敷)」は、ここでは宮中のことを指します。もともと「ももしきや」で「大宮(宮中)」に続く枕詞でした。英訳では、「paved with a hundred stones」と字義通りに訳されています。

第3句の「しのぶ」は、「忍ぶ草」と「偲ぶ」(昔を懐かしむ)の掛詞であると解釈できます。

ちなみに、「忍ぶ草」はシダ植物の一種ですが、土のない場所から生える様子が環境に耐え忍んでいるように見えることが、名前の由来であるそうです。

「この古びた屋敷には、軒からシダがたくさん生えている。しかし、私にはそれよりもっと多くの古い思い出がある。」英語はこのような意味でしょうか。

英語の「pave」は「敷く」、「fern」は「(植物の)シダ」、「eave」は「軒、ひさし」の意味です。

日本語底本

日本語底本は、Wikisource の各ポスト執筆時における電子テキストです。

小倉百人一首
http://ja.wikisource.org/wiki/小倉百人一首

なお、この Wikisource の底本は不明です。歌の本文や歌人の表記が、他の文献や一般に流布するカルタと一部異なることがあります。

Wikisource の最新のライセンスは Wikisource のサイトを参照してください。(以前は GNU Free Documentation License でしたが、その後、クリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスに変更されたようです。)

英語訳底本

英語訳底本は Wikisource の各ポスト執筆時における電子テキストです。

Hyakunin Isshū
http://en.wikisource.org/wiki/Hyakunin_Isshū

Wikisource の最新のライセンスは Wikisource のサイトを参照してください。(いわゆる public domain 扱いのようです。)

この Wikisource の底本は、1917年に Clay MacCauley が公開した以下の版によります。この版は現在 public domain として扱われています。

Hyakunin-isshu (Single songs of a hundred poets) and Nori no hatsu-ne (The dominant note of the law), editted by Sadaie Fujiwara, translated into English by Clay MacCauley. Published in Yokohama, Shanghai by Kelly and Walsh, Ltd. 1917.

この文献のコピーは、下記サイトから PDF 形式で取得できます。

千葉 宣一 (2004). 慶応・明治・大正期に於ける『百人一首』の英語訳. 北海学園大学人文論集 26・27, 別冊, pp. 1-737.
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004028289/

この資料には、Clay MacCauley だけでなく他のより古い複数の翻訳が含まれいます。中には挿絵付きの版もあり、眺めるだけで楽しめる資料となっています。関心のある方はぜひご覧下さい。

MacCauley (1917) の標題 MacCauley (1917) の奥付